旧満州(中国東北部)の鉄嶺という地で、敗戦を迎えた時、私は2歳2ヶ月。南満州鉄道の機関士だった父は、その技術を、中国人に教え引き継ぐ目的で留用され、菊池に引揚げて来たのは、翌年の秋だった。そんなに幼かった時の記憶が、断片的とは言え自分でも驚くほど残っているのを、私自身不思議に思っていた。
敗戦と同時に、日本人と中国人の立場が瞬く間に逆転、無秩序な日々に陥ってしまった。
私の家にも、銃を構えたロシア兵が略奪に来る。ロシア兵の姿がチラッとでも見えると、母は、私を置き去りにして身を隠す。恐怖と、大事にしていた人形を土足で踏みつけられた悲しさに、私は泣き叫ぶ。「時計と泣く子には弱い」と言われていたロシア兵は、泣き喚く私に閉口して退散する。結果として、私は、若かった母の身を守っていたことになるのだが、この時の恐怖が、記憶に繋がったのだと思う。
追われる立場にいる人達を、屋根裏に匿ったりしていた父だったが、家族だけ一足先に引揚げた娘さんを預かっていた時は、胸を布できつく巻き、頭はザンギリ頭、顔には煤を塗り、男装させて守ったという。このお姉さんの記憶は、うっすらとある。引揚げ時、両親はそれぞれ、詰め込めるだけ詰めた大きなリュックサックを背負い、両手には鍋ややかん、しかも母の胸には生後8ヶ月の妹。 疲れと眠気でフラフラする3歳の私は、父に「寝たらこのまま置いていくぞ」と脅され蹴られながら歩くしかなかった。
引揚げ港(コロ島)までの無蓋貨車は、発車時刻も到着時刻もなく、用足しに降りている間に動き出して、そのまま置き去りになったり、長く停まっていると、暴徒化した住民の略奪にあったりした。そんな中でも、私には、積まれた荷物の上で、父と「お馬の親子」を歌った記憶があるのだ。
引揚げ船の船底に詰め込まれた途端、子供達は、まるで死んだように眠りこけたという。私もその一人だったと思うと、70年以上経った今でも、胸の奥が痛くなる。
引揚げ船での忘れられない光景は、水葬だ。遺体を毛布のようなもので巻いてクレーンで海面におろす。その様子を、父と見ていた私は怯えた。「魚に身体をチクチク食われて痛いだろう」と。船は汽笛を鳴らしながら大きく三回旋回して、日本へと向かう。帰国を目前にして逝った本人や家族の無念さ、悔しさなどには思いも至らない、何とも幼い私のその時の思いだった。
昭和21年10月16日、コロ島を出港して11日目に菊池に辿り着き、現在の菊池市中央図書館から見える橋のたもとに、出迎えの祖母と従姉が立っていた。「痩せて目ばかりがギョロギョロしていた」と、従姉によく言われた。
母乳が出ず栄養失調だった妹は、肺炎を併発して、帰り着いてひと月も経たないうちに亡くなった。生後八ヶ月だった。無事に連れて帰れた安堵感があっただけに、母は本当に辛かったと思う。幼い記憶の不可思議さで、この妹の事は、私の記憶には全く無いのだ。
私は、とにかく戦争を恐れ「戦争になったら、私を連れて逃げてね!」「もし迷子になったら、必ず探してね!」と、事あるごとに父にしつこく懇願していた。
戦後27年も経った昭和47年に、日中国交が正常化されてから、やっと始まった残留孤児の肉親探し。日本語も忘れてしまう歳月を経た孤児達の姿は、一歩間違えば我が姿でもあった。そんな思いの私はテレビに釘づけになった。その背後には、厳しい逃避行の最中に親にはぐれた子供、捨てられた子供、売られた子供達がいるのだ。幸運にも再会が叶った喜びも束の間、孤児達には、絶ち難い肉親への情と孤児になった自分を育ててくれた中国の親への恩愛との狭間で、悩み苦しむ悲劇が起きた。
その後、様々な戦争のむごさ悲惨さを知るにつけて、私の幼い体験は、結果としては両親に守られながら、しかも郷里には待っている肉親がいた、そんな恵まれた引揚げ体験だったと思うようになった。それでも、幼い五感で感じとった戦争・満州引揚げ時の体験は、原体験として、幼い私の記憶の底に焼きつくほど過酷なものだったことに、違いはない。
筆者の帰国経路 鉄嶺~奉天(現・瀋陽)~錦州~コロ島~博多
(注)写真は、写真集「小さな引揚者」 飯山達雄 写真・文 草土文化 発行から転載
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