深川・菊之池
画・橋本真也(元菊池市地域おこし協力隊) 解説・堤克彦(熊本郷土史譚研究所長・文学博士)
この絵は武光も見た深川の「鞠之池」ですが、奥のもう一つの池は「深川湊」の「船溜まり」(字名「古池」)かもしれません。
右の絵は、文政年間(1818~29)に「読本」作家暁鐘成(あかつきのかねなり)
の著『鎮西菊池軍記』序「菊池氏家譜歴代略記」の挿絵で、延久(1070)年に菊池氏
初代則隆が菊池下向の際、「菊の池」の由来を尋ねている様子、左奥に「菊の池」が描か
れています。
また「菊の池」の初見は、江戸時代の著『菊池温故』や『菊池風土記』によると、則隆
の下向より約100年前の寛和二(986)年一月に、清原元輔(『枕草子』の著者清少納言の父、908~990)が「肥後国主」に赴任した際「さればこそ いさきよからめ 佐保川の 流れも清き 菊の池水」の歌を詠んでいます。
『鎮西菊池軍紀』の挿絵
福島県郡山市在住の紺野健氏蔵『菊池家系図』には、「後三条帝(1034~73、在位1063~73)、延久二(1070)年庚戌9月、肥後国菊池郡並びに御剱を賜ふ。正四位上肥後守に任ず。勅許を以て獅子牡丹を幕紋と為す。菊池郡に下向す。承保元(1074)年甲寅二月、同国菊池郡深河村に築城し住す。地名を以て菊池氏と称す」とあり、後三条天皇に破格の優遇を受けています。
前の『鎮西菊池軍記』では、「郡中に深河村といへる地方、頗る其の要害最上なりと、此の地に城郭を居(すへ)られぬ。然るに此の深河村の中、巽(南東)にあたって広大なる池あり。其の池の形菊の花のごとくにして、池辺一円に数種の菊生ひて、黄紅白に爛漫たり。爾有(さある)によって、此の池を菊の池と号し、国中の勝地とし、郡名をも号(なづ)けそめんとなん言い伝へり」と記しています。
下向した則隆はもっと昔の故事を詳細に聞きたいと、村の老若男女を集めましたが、誰ひとりとして知りませんでした。則隆が非常に残念がっていたその時、何処からともなく、一人の乙女が手に菊の枝を持って忽然と現れました。乙女は田舎の婦女ではなく、「眉は初春の柳葉に似て、顔ハ晩春(やよひ)の桃花のごとく、深窓に成長し、貴人も恥ずべき風情」だったので、則隆はただならぬ女と直感しました。
その乙女は「此の地方ハ往昔より風土他に異にして、菊多(たは)に生(おい)出(いづ)る名地なり。是によって菊を愛する神仙、こゝに下って人間に化し、朝暮菊の露をなめ、花を寵(いつく)しみ遊ばれしが」と語りましたが、村人たちはこのことを知らず、ただ「菊の少女(おとめ)」と名づけて、孤独な子供として不憫がりました。
肥後国には「熊津長者」という悪人がいて、この少女に懸想していましたが、乙女は断りました。これに腹を立てた長者は討手を差し向けましたが、乙女は「虚空(そら)に飛行して往去(いくへ)を知らず」になりました。
怒った長者は、さらに菊の野一面に火を放ち、焼け野が原にしましたが、春が来ると以前と同じ様に菊の若葉が芽生えて来ました。長者はさらに憤り、今度は菊を根ごと掘り返させましたが、「其の跡崩れて忽ちかゝる(いまのような)池となり、形も菊の花に等しく」、菊の花は少しも絶えずにそのまま残りました。
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則隆は「此の物語を微細(つばら)に書きとゞめ、神女が告げを疎くせず、是れぞ当家の吉瑞とて、苗字を菊池と称号し、こゝに築きし城郭をも菊が城と号けられ、菊姫の宮を(略)菊池守護の神なりとて、専ら尊崇せられける。是れ菊池家元祖にして、後世につたへ菊池をもって家号」としました。
『鎮西菊池軍記』では「菊之池」が「菊池郡」や「菊池姓」の基になったとしていますが、渋江松石著『肥後郷名考』では、これは「付会」説で、正しくは「鞠智城」の「鞠智」(久々知)が、奈良時代に元明女帝が『風土記』編纂の際、「鞠智」を瑞祥地名の「菊池」に換えて「くくち」と読ませましたが、やがて「菊池」を漢字のまま「きくち」と読むようになったと、その経緯を実証的に説明しています。詳細は拙著『肥国・菊池川流域と百済侯国』を参照してください。
なお菊池祭り再興を考える会編『まんが風雲菊池一族 ~今よみがえる白龍伝説』(画 森藤よしひろ 1995年)が出版されて、この「菊之池」について、則隆下向の時に「白龍」(右上写真)が現われ、それを「吉兆龍」として深川居城を決めたという設定になっています。この漫画を読んだ多くの小中学生たちはみんなこの「白龍伝説」を信じ込んでいて、これに関する多くの質問にどう答えたらいいか、随分迷ったことがありました。その後この「白龍伝説」は独り歩きし、現在では夏祭りのメイン・イベント「白龍祭」となっています。正しい菊池氏の歴史を調べ発信してきた一研究者として複雑な思いがしています。(禁無断転載・使用)
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