[2019/6月号]中世を駆け抜けた「風雲菊池一族」が、今よみがえる ~赤田の田植え~

最終更新: 2019年8月31日

平安時代から室町時代後半までの約450年にわたって菊池地方に勢力を持った一族の物語

絵・橋本眞也(元菊池市地域おこし協力隊)

解説・堤 克彦(熊本郷土史譚研究所長・文学博士)


赤星村の田植えの様子です。絵の正面の鎮守の森は氏神(産土神)を祭った「赤星天満宮」(「赤星早鷹天神」と同一説あり)、最奥には「矢筈岳」(八方岳)、右奥に「守山城」が描かれて、その手前には赤星の民家の屋根(この時代は茅葺き)が見えます。また神社の右横には「牛耕」の様子も描かれています。


田植えは村人総出の「結」(ゆい、共同作業)で行われています。神社前の平地では「田植え神事」が行われ、横笛・太鼓・鼓・鉦・ササラなどの囃しで「田楽」を舞っています。田んぼでは早乙女たちもその囃しに合わせて苗植え、男衆が音頭とり、また早苗(さなえ、サは神稲の意)を運んでいます。


早乙女(さおとめ)たちは、田植え前には立ち入り禁止の目印に「菖蒲」をさした家屋に集まり、身を清めて、物忌みし、「田の神」を迎え、その後一緒に田んぼに入って田植えをします。当時は「田の神」の精霊が早苗の成長を助け、秋の豊穣が約束されると信じていました。「山ノ神」が「水ノ神」(女神)になって田に下ったのが「田ノ神」で、「へび」はその化身とされていました。


『菊池市史』上巻によれば、この赤星市域は奈良時代の「条里制」の遺構が赤星集落の南に見られ、また「福土(ふくつち)遺跡」「水溜(みずたまり)遺跡」では、平安前期の居住址や土師器・須恵器類の他、墨書土器・越州窯系青磁椀などが出土しています。鎌倉時代はすでに「赤星荘」が設けられ、万寿四(1027)年以降に大宰府の「安楽寺」に寄進されています。延久二(1070)年、大宰府官系武士の初代則隆がこの「赤星荘」に地頭(荘官)として下向したともいわれています。


15代武光の頃には対岸の「深川湊」に中国の「龍泉窯系青磁器」が大量に陸揚げされ、この赤星には「船場」(ふなば)地名があり、「深川湊」まで遡上した運搬船(平太船系か)の繋留場であったと思われます。このように赤星一帯はすでに武光以前よりかなり開けた重要な地域でした。


杉本尚雄著『菊池氏三代』では、菊池武光頃の石高は、菊池・山鹿・山本三郡で約10万石(但し近世の総石高から逆算)と推定しています。渋江松石著『菊池風土記』には菊池氏の代より「菊池井出」・「加恵井出」・「夜間(やけ)井出」があったこと、「赤星井出」は「加藤氏の代に出来る。此の井出、稲田を養ふ所、赤星・出田村也」と記され、武光のころにはなかったことがわかります。この絵の田んぼの水は、すぐ近くの菊池川から「結」などで掘られた小規模な溝を通して引かれたのかもしれません。


なおこの絵の田植えの仕方は現代の機械植え以前の「正条植え」のようですが、この普及は明治の日露戦争以降で、武光の頃は少しでも収穫量を増やそうと、多くの苗を目いっぱい植えていました。(禁無断転載)


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