平安時代から室町時代後半までの約450年にわたって菊池地方に勢力を持った一族の物語
絵・橋本眞也(元菊池市地域おこし協力隊)
解説・堤 克彦(熊本郷土史譚研究所長・文学博士)
一般に輪足村の「乱橋」(乱れ橋)と言われています。「乱橋」(乱れ橋)の名はなかなか趣があって、最初は不揃いの石を使った趣向を凝らした橋ではないかと思いましたが、つぎに紹介するように橋の作り方ではなく「蛍の乱れ飛ぶ橋」の意で、菊池武光頃は「蛍の名所」でした。
この「乱橋」について、享保十七(1732)年の宗善右衛門尉重次著『菊池温故』の「名所・旧跡之事」では、「この橋は築地村より西、纔かの石橋をいう。予(著者)思うに、この説当世(今の世)誤れるにてはあらずや。乱橋というは蛍の名所にて、菊池氏全盛の頃は遊興有りて、詩歌を詠ぜしとなり。この橋の辺に蛍群集して、後に散乱(散らばる)し、さながら花火に異ならざりしという。今は自然には集りて乱るる事有りと、所の者語れり。今様(通説では)に菊池氏遊興有りし橋というに、今いう橋は加藤主計頭(かずえのかみ)清正公、国主たりし時に井手(築地井手)を掘らしめて、十村計りの田地を養しあう便(便利)とし給う。この井手筋より別れて流るる小井手に渡せる纔かの石橋を、遥か前代の菊池家遊興の橋という事不審なり。今いう乱橋、清正公井手を掘らしめ給うさる筋は畑か野にてこそ有りつらん。陸に蛍群集の儀、有る間敷き事なり。古への乱橋といひつるは築地村と木庭村との間に、菊池川にかけたる橋にては有る間敷や。四五十年以前迄は、幅広き仮橋(まま、反〔そ〕り橋、輪橋とも書く)なりしかども、近代は竹木の費をいと(厭、嫌うこと)ひて、細く懸け来り。されども、大河にかゝる橋なれば、大体の水には落ちず。五月雨(梅雨)の頃、勝れたる洪水(大洪水)には流れ落ちて給わる事有り。この橋を乱橋(水害でしばしば流される橋の意か)とはいわざるや。この橋の上下、別れて蛍多しという。今も此の橋上下には、自然に蛍群集して乱散する事有りと、所の者語りけり」と記されています。
それから約60年後の寛政六(1793)年の渋江松石著『菊池風土記』の「旧跡」にも「乱れ橋」の記述があり、「此の橋、蛍格別多く集りて、一か所にかたまり、みたれつ飛びつ。興すべき故、菊池氏全盛の頃、遊覧有りて、乱れ橋の称有り。乱れ橋、土俗申し伝ふる所二カ所有り。一ツには築地村西道下に石橋有りを云う。甚だおぼつかなし(不明確の意か)。是は築地井手水懸り地也。此の井手は加藤氏の時に出来たり。菊池氏時代未だ此の井手なし。故に俗説誤り也。二ツには木庭村の橋といふ。是正説たるべし」と記されています。
橋本氏にこの資料を紹介したことから、この絵が生まれました。菊池氏全盛期、即ち武光頃の「乱れ橋」は本来ならば川面すれすれの「沈め橋」でしょうが、少々橋下を高く誇張して描いたとのことでした。おそらく春・秋に行われた「歌垣」が、菊池では「蛍狩り」の時期に行われていたのかもしれません。この「蛍狩り」の名目で若い男女が出会い、また恋人同士の密会に最適のロケーションでした。
前掲の両著では、江戸期にはその「乱れ橋」の位置についての二カ所の説をあげ、その考証を試みています。一つは「築地井手の西道下」の小規模な石橋説、あとの一つは「築地村・木庭村間の菊池川にかけたる橋」説です。この二説については、具体的な実地踏査に基づき、詳しく考証を試みた結果、前説の方が正しいようです。詳細は割愛しますが、すでに別稿を用意しています。
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