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[2020年2月号]中世を駆け抜けた「風雲菊池一族」が今よみがえる~菊池十八外城 増永城~

菊池十八外城 のうちの 増永城(西郷城)

                  画・橋本真也(元菊池市地域おこし協力隊)

                  解説・堤克彦(熊本郷土史譚研究所長・文学博士)

 橋本真也氏はその著『絵でみる幻の都 城下町+菊池』(菊地市経済部商工観光課発行)の第二章「菊池十八外城」で、すべての「外城」について想像豊かに描いています。その扉の解説で「隈府の菊池本城を守るべく、領地内にネットワークのように張り巡らされた砦」、さらに「十八という数字はごろがいいから」と記し、「現在想定されるだけでも20余城を数え、領地外のものも、500年の歴史の中で作っては打ち捨てられたものまで含めば、さらに数は増えるでしょう。何にしろ大変な軍事力」と記していますが、これから述べる私の「外城」論と比較・検討してみてください。

 この本の中の「増永城」の鳥瞰図は、菊池市七城町西郷の「増永城」跡の説明板にも使用されています。本人もかなり大規模に描いたとか、私はこの三分の一程度の小規模な城郭の「居城」と推定しています。

 この「増永城」は菊池氏初代則隆の庶子(嫡子説あり)西郷太郎政隆が、父則隆の命を受けて、西郷一帯の支配と開拓の拠点として築城した「館城」(居城)で、外敵に備えるための「外城」的性格は薄く、周囲の堀は「館城」の防備を兼ねていましたが、その主目的は農業用水の確保の施設でした。

 その後文永十一(1274)年と弘安四(1281)年の「文永・弘安の役」(蒙古襲来)に、10代武房は菊池氏の一族17人を率いて参戦、各一族の「居城」主ごとに、例えば菊池氏庶家の井芹氏(知行地14町1反)の場合、「新注状」によれば「一族郎党4人・所従3人、乗馬2疋・弓箭4・兵杖4・腹巻2領」と割り当てています。菊池陣営はこのような「居城」単位の動員体制で構成されていました。

 ところが15代武光勢が「筑後川合戦」(大原合戦)で少弐頼尚勢に勝利し、正平十八(1363)年大宰府に「征西将軍府」を開設、菊池市の広報・チラシでは武光を「九州を征した男」といっています。しかし開設直後から室町幕府の3代将軍足利義満と対峙し、幕府配下の武将たちの攻撃への常時警戒が始まりました。天授元・永和元(1375)年の「水島の戦い」では、17代武朝は「台城」で防戦、「亀尾城」に陣取った今川貞世(了俊)勢と交戦、その後菊池本城「守山城」は幕府側の武将たちに攻められました。

 このような状況下で、「増永城」は単なる城主西郷氏の「居城」ではなくなり、「守山城」防衛の「外城」の役割を担いました。初代則隆の頃は支配領域の拡大拠点だった各地の「居城」も、武光の頃には逆に支配領域を守備・確保するための「外城」に変わってしまいました。

 元中九(1392)年の「南北朝合一」後も、16代武政・17代武朝の下で、外敵対応のために数多く「外城」が築かれ、その数が増え続けました。(表1)そのために多くの家臣たちを「外城」に配備、逆に本来の目的である本城「守山城」防備が手薄になるという問題が生じました。

 18代兼朝はこれらの「外城」の整理かつ厳選を決断して残したのが「菊池十八外城」制でした。しかも「外城」の位置的重要性から、「番役」は「代々住」(歴代常駐)・「住」(常駐)・「在番」(交代)で対応しています。(表2)こんな状況の菊池氏が「大変な軍事力」であったとは考えられませんし、この後の菊池氏が衰亡の一途をたどる過程を見てもわかります。

 詳細については拙著『くまもと郷土史譚つうしん』第18号「菊池十八外城の決定時期」(2012年9月15日号)をご覧ください。なお「増永城」と西郷氏に関しては拙著『西郷隆盛論‐その知られざる人物像』(熊本出版文化会館 2017年)を御一読ください。

                              (禁無断転載・使用)








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