「孔子堂」址の碑(『菊池市の文化財』より)
とっておきの 2022年1月号
熊本・菊池の歴史アラカルト (11)
『菊池の偉人・賢人伝』②-「文教菊池」のはじまり
堤 克彦(熊本郷土史譚研究所所長・文学博士)
今日「文教菊池」(「菊池文教」)ということばがよく使われるようになってきましたが、一体「文教菊池」とはどんなことでしょうか。またどんな歴史があり、どんな先人が輩出し、また菊池が「文教菊池」といわれるようになったのは何故でしょうか。この号ではそのはじまりについて紹介してみたいと思います。
その歴史は南北朝と古く、それを受け継いだ江戸時代の先人たちは、日々の取り組みによって、「文教菊池」の名に恥じない学問と教育の環境を作り出しました。肥後藩庁も『町在』の中で、菊池地方は、前号で紹介したように「以前より人材傑出之土地柄」と称されたほどでした。また藩内外からも、多くの文化人や学者がこの「文教菊池」の郷を訪ね、その見聞した様子を地元に持ち帰り、「文教菊池」の評価をそのまま伝えました。
670年以前の南北朝時代の正平四(1349)年、第15代菊池武光が、懐良親王を菊池に迎え、親王を慰めるため、当時京都で流行していた原初の「能楽」である「松囃子能」を菊池に持ち込み定着させました。
その約120年後の室町時代、第21代菊池重朝は、重臣の隈部忠直(くまべただのぶ)と第20代の父為邦の尽力のもと、文明四(1474)年「孔子堂」(くじどう)を設け、孔子十哲の像を祭り、「論語」を素読する声が聞こえていました。また文明九(1477)年には南禅寺の高僧桂庵玄樹(けいあんげんじゅ)を「孔子堂」に招き、「宋学」(朱子学)を家臣らと共に学びました。(上段の写真)
さらに文明十三(1481)年には飯尾宗祇の流れを汲む連歌師を招き、重朝自らも家臣たちと一緒に「連歌」(「武士連歌」)を催すなど、「文教菊池」の端緒と隆盛の基盤を作りました。現在弘治二(1556)年に城親賢が書写した「隈府一日興行万句連歌発句」(『菊池万句連歌』)は菊池市の指定文化財となっています。その発句数は約100句あり、いずれも「文雅の嗜み深い」隈部忠直の連歌に、少しも劣らぬ「俳趣武士」揃いであったことがうかがえます。
菊池重朝時代の文教は、何も菊池だけの特徴ではなく、その背景は応仁元(1467)年から文明九(1477)年までの11年間も続いた洛中での「応仁の乱」(「応仁・文明の乱」)がありました。焦土と化した京都の文化人たちは難を避け、地方の有力な守護大名や有力武将を頼ったために、京都文化は一挙に地方にまで普及しました。山口の大内氏を頼った水墨画の大家雪舟などが有名です。
菊池重朝の文教とそのレベルの高さは、肥後国内はもとより、九州一円でも広く知れわたっていましたが、「応仁の乱」に続く約100年間の戦国時代の混乱の中で、そのほとんどがかき消されてしまいました。それが江戸時代になって、前述した先人たちによる菊池氏の顕彰運動と共に「松囃子能」や過去の優れた文教の掘り起しが行われ、また「孔子堂」に代って新たに「渋江塾」が開塾され、当時「菊池文学」(「文教菊池」)の源となりました。
中世時代の文教は、菊池一族とその家臣団など一部の人々のものでしたが、江戸時代にはその枠を大きく広げ、多くの好学の者を育み、名実共に「菊池文学」(「文教菊池」)の郷となりました(無断転載禁止)
【資料】
〇資料として、月刊「熊本郷土史譚通信」会報 第37号(2014年4月)掲載の特集「菊池文教の源流と展開」 (1)-中世「菊池文教」の時代的背景-を掲載しておきます。
はじめに
「文教菊池」か、将また「菊池文教」なのか。地元では「文教菊池」の方がよく使われています。これはただ「菊池」と「文教」の語順の前後関係ではなく、いずれが「菊池地方の歴史に合致した表現」なのか、個人的には密かに悩んでいます。
「文教」は「学問・教育によって人を教化すること。またその教化」の意ですが、「文教菊池」即ち「学問・教育によって菊池の人を教化」(文教が主体になった菊池おこし)をしたのか、「菊池文教」即ち「菊池は学問・教育によって人を教化」(菊池が主体となって文教おこし)をしたのか、つまり「文教」が主体なのかそれとも「手段」だったのかを考えてしまうからです。
もちろん両者は密接な関係にあり、「文教」=「菊池」と等式的に考えればよいのかもしれませんが、その起点に「文教」と「菊池」のどちらに重点を置くのか。どちらが菊池地方の歴史に合致した表現なのかをついつい考えてしまうのです。
中世では菊池氏の下で「文教」が興隆したという意味で「菊池文学」(菊池の学芸・学問の意)の表現もあります。後述の「五山文学」にあやかったのかもしれません。そこでこの「くまもと郷土史譚つうしん」では、「菊池」で栄えた「文学」(文教)の意で、「菊池文教」を採用しました。
一、「大義名分論」の変移
最初からいきなり固い話で恐縮ですが、これまで菊池氏に関して「南朝正統論」・「南朝一辺倒」と同様に「大義名分論」という言葉を使ってきました。『漢和辞典』によれば、「大義」の出典は『易経』の「家人」で、「人間としてふみ行うべき大切な道」「君臣・父子などの道」の意、また「名分」の意は「人の身分・地位・職分などの名称と、それに伴う本分」とされています。
『国語辞典』では、「大義」は「君主や国家に対して臣下として尽すべき道義」、「名分」は「守るべき道義上の決まり」の意で、「大義名分」は「人としてまた臣下として守るべき節義と分限」、「他に対して堂々と正当性を主張できる理由」の意となっています。
1、中世的「大義名分論」
王家驊氏著『日中儒学の比較』(六興出版 1988年)により、南北朝期の「宋学」(朱子学)と「大義名分論」の関係について見ていきたいと思います。( )内は引用者註です。
・鎌倉末期に興隆し始めた武家の「宋学」(朱子学)は、従来の天皇・公家・博士らの「宮廷儒学」に影響を与えました。しかし「宮廷儒学」は、「四書五経」などの解釈で「古注」(漢・唐時代の訓詁学による注釈)を墨守、「五山文学」の「禅林」(禅宗寺院)で行なわれていた「新注」(朱熹による新たな注釈)に対抗していました。
・玄恵僧都(?~1350)は鎌倉後期・南北朝期の天台宗の僧で、一説には虎関師練の弟とも言われ、「天台宗」や「禅宗」それに「宋学」を究めていました。足利尊氏・直義に用いられ、『建武式目』(1336)の制定にも参与、さらに『太平記』や『庭訓往来』の著者とも伝えられています。
その玄恵僧都は、後醍醐天皇の講筵で新来の「宋学」(「論語」など)を講じ、また北畠親房に『資治通鑑』(治世に利益があって歴代為政者の鑑とするに足る通史)を授与、その北畠親房は『神皇正統記』(1339)を著しています。
王家驊氏によれば、足利衍述・西村時彦両氏は、これを論拠に「玄恵は宮廷の宋学の首唱者であり、建武中興の原動力は宋学であり、北畠親房らの南朝の忠臣の勤王思想の源流も宋学であった」と論じています。建武中興の原動力が玄恵僧都を介した「宋学」であれば、南北朝期初めに北畠親房が著した『神皇正統記』(1339)には、当然「宋学」(朱子学)の「大義名分論」の影響が見られるでしょう。
また前の菊池氏の「南朝正統論」・「南朝一辺倒」の行為が、「宋学」の「大義名分論」の影響があったとすれば、菊池氏が「南朝」への臣下としての「節義と分限」と「道義」の根拠になったとも考えられます。ただ後述の近世的「大義名分論」と同一視するのはどうかと思われます。
2、近世的「大義名分論」
ここで近世的「大義名分」に至る変遷を簡単に見ておきたいと思います。朝鮮では李朝(朝鮮王朝)以降「朱子学」は「国家教学」となり、日本以上に尊重されていました。日本では、江戸初期に藤原惺窩(1561~1619)は「文禄・慶長の役」で捕虜になった姜(きょうこう)との学問交流から、李退渓の「朝鮮実学」(朱子学)の影響を受け、やがて林羅山に伝えられて、「幕府官学」(正学としての「朱子学」)となり、幕末までの基本的教学になりました。
近世の「宋学」(朱子学)は、中世の「宋学」(朱子学)が中国(元・明)系であったのと違って、朝鮮系の「宋学」(朱子学)の影響下で形成されたことの違いは非常に重要ではないかと思います。そしてこの「朝鮮実学」系の「宋学」(朱子学)が、江戸幕府の文教政策の根底に「正学」として位置づけられ、その「大義名分論」が近世封建社会の倫理的支柱として重要視されたのです。
戦国時代を通じて形成された封建的主従関係が、江戸時代にはいって固定化するに及び、この「朝鮮実学」系の「宋学」(朱子学)で裏づけられた「大義名分論」は、武士階級の倫理として主唱され、封建的体制の危機の際には特に強調されたことは周知の通りです。その後、幕末には天皇中心の「大義名分論」にすり替えられ、幕政批判・尊王攘夷運動の有力な思想基盤となりました。
私が懸念するのは、中世的「大義名分論」が果して前掲の『国語辞典』のような「大義名分」の定義でよいのかということです。即ち「主従の大義を明らかにし、臣下の分を尽くし、名分をたてること」云々は、あくまでもこのような近世的「大義名分」を経た後の定義であり、南北朝期の中国(元・明)系の「大義名分」と同一の意であったのかということです。具体的にその違いを明らかにするだけの力はありませんが、今後専門家や研究者による検証に期待しています。
二、中世「菊池文教」の背景
菊池氏の「南朝正統論」・「南朝一辺倒」の根拠が「宋学」(朱子学)による「大義名分論」にあったことはいくらか明らかになりましたが、そこに至るまでには、おそらく以下に述べるような菊池氏の精神的支柱の移行があったと考えられます。
1、菊池氏の「禅宗」への帰依
歴代の菊池氏は神社・寺院を建立して精神的な支柱としてきました。例えば第十二代菊池武時は、元徳二(1330)年大智禅師を開山に「鳳儀山聖護寺」(曹洞宗)を建立し師匠と仰ぎました。また第十三代武重は、延元三(1338)年七月に有名な起請文「よりあひしゆのないたんのこと」(寄合衆の内談の事)を起筆し、菊池一族内部の結束を図るための「菊池家憲」としました。また第十四代武士も菊池氏の後継者の選出・決定に関して、盛んに「起請文」を起筆しています。
この時期は、北畠親房が「宋学」(朱子学)の「大義名分論」の影響が見られた『神皇正統記』(1339)を著した同時期で、中世的「大義名分論」の影響が出始めていましたが、菊池武重や武士は盛んに「起請文」を起筆していました。「起請文」とは、自ら「守り行うべきことを、神仏にかけて相手方に誓約した文書」で、自己の行動・行為・思考など、神仏を介して規制・制約する誓約書でした。
一族・家臣らも恐れる「神罰・仏罰」は、誓約の信憑性を高め、「起請文」の内容の許諾と協力を容易にし、一族や家臣の結束をさらに強固なものにしました。その信頼度は、中世の裁判でも「起請文」によって、判決が下されるほど強い拘束力をもっていたと言われています。
「鳳儀山聖護寺」開山の大智禅師は、「鎌倉五山」の「建長寺」で南浦紹明・釈雲らに師事、正和三(1314)年に元に渡り、古林清茂・雲外雲岫らに学び、正中元(1324)年帰国。そして元徳二(1330)年に「鳳儀山聖護寺」を開山しています。このように当時の禅僧たちは「五山」に依拠し、「禅宗」ばかりでなく「宋学」(朱子学)も学び、大きな影響を受けていました。
即ち武士階級の勃興と共に、その精神的支柱として「禅宗」(曹洞宗・臨済宗)が弘布していきましたが、その過程で「禅学」とともに「宋学」(「禅林の儒学」)が盛んになりました。このような経過の下で、宮廷・公家の早期儒学即ち「宮廷儒学」(漢・唐の訓詁学)に替って、日本国内に新たな「儒学」革新の気運が旺盛になり、鎌倉・室町期の精神生活でも、最初は「仏教」(禅宗)が主で、「儒学」が従でしたが、やがて仏・儒が逆転してしまいました。
2、菊池氏の「儒学」への移行
鎌倉・室町期の「仏教」が主であった精神生活では、「起請文」は十分功を奏し、一族や家臣の統制・結束を十分に可能にしましたが、やがて「儒学」が主に成っていく過程で、その効力が薄くなり形式的なものになって行きました。
元中九(1392)年閏十月の「南北朝合一」以後は、菊池氏の「南朝正統論」・「南朝一辺倒」という「大義名分論」も色あせてしまっていました。新たな一族の統制・結束手段として浮上してきたのが「儒学」即ち「宋学」(朱子学)だったのでした。
さらに拍車をかけたのが、前号で紹介した菊池兼朝・持朝の父子の対立や『朝鮮王朝実録』でみた菊池一族の「受図書人」をめぐる内紛(菊池為幸による菊池為邦の「受図書人」資格奪取事件)など、これまでそれなりに盤石であった菊池一族がその内部から揺らぎ始めていました。
このような事件が起こる中で、第二十一代重朝は一族や家臣の結束を図るための「大義名分論」として、「儒学」の「孝悌」(父母に孝行を尽し、よく兄に仕えて従順であること)・「忠信」(忠義と信実、誠実で正直なこと)の必要を感じ重視したのでしょう。
これまで重視した「仏教」(慈悲による人間の平等を唱え、人間自身に根ざし人間自身の生き方が基本とする)と違った価値観が必要になってきたのではないかと推測しています。最早この段階では、南北朝期の「南朝」への「節義と分限」や「道義」という「大義名分論」よりも、新たな一族の統制・結束を大前提に、「儒学」の「大義名分論」が必要不可欠であったのではないでしょうか。
「仏教」を介した「起請文」形式の誓約による制約ではなく、一族・家臣などやその他の者にも、「宋学」(朱子学)の普及・教化を通し、彼等の思考や行動に「孝悌」・「忠信」の実行を要求する「儒学」の方がより効果があると判断したのでしょう。しかも宗教性を残したままの「儒教」ではなく、「五山文学」で学問的な「儒典」研究の対象となった論理性を重視した「儒学」でした。
三、「室町文化」と地方波及
中世「菊池文教」の起源と展開については、次号で具体的に「孔子堂」と「菊池万句」を取り上げることにします。本号ではその基盤となった室町時代という時代背景、特に「室町文化」の多様性とその地方波及の原因と経緯について見ておきたいと思います。
1、「室町文化」の多様性
室町幕府は全体を通して政治的には非常に不安定でした。安定したのは第三代将軍足利義満の時で、「金閣寺」の造立や観阿弥・世阿弥により「能楽」や「謡曲」が大成されるなどの「北山文化」が栄えました。同時に鎌倉五山・京都五山を中心に「五山文学」(禅林文学、禅僧の漢詩文・日記・語録)が盛んになり、「禅宗」と共に「禅林の儒学」として「宋学」(朱子学)が盛んになりました。
将軍職は第四代義持・第五代義量・第六代義教・第七代義勝と継嗣されましたが、この間には「土一揆」・「国人一揆」さらに「一向一揆」などが頻発し、幕府ばかりでなく守護大名の領国支配をも揺るがせました。
これらの一揆の基盤は、荘園制の解体に伴って形成された「惣村」(中世的村落共同体、郷村)であり、「惣百姓」の代表者が構成する「寄合」による自治が次第に一般化し、後述する室町文化の地方波及の重要な受け皿になりました。
第八代義政の時には「銀閣寺」に代表される「東山文化」が栄え、「五山文化」として宋・元から伝えられた「水墨画」が流行、寺院には「枯山水」の作庭が行なわれました。また「書院造」の流行は、「茶道」や「生花」などの室内文化を生み、風刺性の高い庶民劇の「狂言」も登場しました。
文化の地方伝播地図(とうほう『ビジュアル日本史』)
特記すべきことは「連歌」です。「連歌」はもともと貴族の遊びでしたが、南北朝の頃、二条良基が『菟玖波集』を撰し、連歌の規則書『応安新式』を制定、それ以来和歌と同等に見なされました。
その後、飯尾宗祇(1421~1502)が「正風連歌」を確立、『新撰菟玖波集』を撰し、また山崎宗鑑(1460?~1539?)が自由な気風の「俳諧連歌」を作り出し、『犬筑波集』を編集、より親しみやすい「連歌」になりました。その頃から、「連歌」を職業とする「連歌師」が各地を遍歴・普及に努めたこともあって、地方の大名・武士や庶民の間で大流行しました。
2、地方波及の原因
第九代将軍の継嗣問題に端を発して、義政嫡子の義尚(母・日野富子)と義政の弟義視が対立、ついに応仁元(1467)年五月に「応仁の乱」が起こりました。洛中で東軍(管領細川勝元・義視方)24国約16万と西軍(所司山名宗全・義尚方)20国約11万の兵力が衝突、文明九(1477)年まで続きました。
洛中は長期にわたる「応仁の乱」で焦土化し、その様子は、「汝や知る都は野辺の夕ひばり、揚るを見ても落ちる涙は」と詠じられています。
守護大名たちが10年間も留守にした領国では、信頼していた守護代など重臣らによる「国盗り」が横行し、焦土化した京都を見捨てて帰国してしまいました。また弱体化した室町幕府には復興の指導力もその経済力もなく放置したままでした。それを復興したのが「京都町衆」でした。そのシンボルが「祇園祭」で、各町内の「山車」(祇園山笠)や外国製のゴブラン織(綴織)などで豪華な「飾り物」は「京都町衆」の焼土化した洛中復興の自信と誇りそのものでした。
この洛中での「応仁の乱」は、当然ながら室町文化の担い手であった京都在住の公卿・五山の僧侶や文化人などを恐怖に陥れ、身の安全のために京都を離れ、保護を求めて地方に避難しました。また同時に「連歌師」の地方遍歴も次第に盛んになりました。
一方戦国大名たちや地方の有力者たちは、京都文化への憧れもあって、地方に下向した公家や五山僧侶や連歌師などの文化人たちを積極的に受け入れました。これが室町文化の地方普及の主な要因とその経緯でした。(地図参照)
これらの「室町文化」を受け入れる土壌は、各地の「戦国大名」や有力武士や豪族の階層ばかりでなく、前述した「惣村」制の成立を背景に、次第に文化度を向上させていた豪商・豪農の存在も非常に大きかったと思われます。
具体的には、地方武士は子弟たちを寺院に預け(寺子)、『庭訓往来』や『御成敗式目』で教育が行なわれました。都市の有力な商工業者たちも商売上、また「郷村」の指導層も「寄合」の運営上、読み・書き・計算(そろばん)は不可欠でしたので積極的に修得しました。
彼らの学習を助けるために『節用集』(日常語の用字・語釈・語源をイロハ順に配列した国語辞典)が刊行されるなど、各地方で文字の世界が浸透し始め、すでにかなりの識字者たちがいました。この状況は、中世の菊池にあっても同様であったと思われます。
四、「五山文学」と「朱子学」
王家驊『日中儒学の比較』(六興出版 1988年)や『国史大辞典』(吉川弘文館)、『角川日本史辞典』、『コンサイス人名辞典・日本編』(三省堂)、『漢語林』などを参考に、中世的「菊池文学」(菊池文教)にも影響を与えた室町期の「五山文学」と「朱子学」の関係を見ていくことにします。
1、「五山文学」と「宋学」(朱子学)
「五山文学」とは、鎌倉末期から室町期にかけて、京都・鎌倉の五山を中心に禅僧の間で行われた漢文学で、禅宗の法語・偈頌(げじゅ、仏徳を賛嘆し、教理を述べたもの)や詩文・論説・日記・随筆などが含まれていました。
「朱子学」は、南宋の朱熹(1130~1200)は、北宋の周敦頤らの思想を継承・発展させ、さらに漢代の「五経」(易経・書経・詩経・礼記・春秋)中心の訓詁(字句の解釈)偏重を批判し、「四書」(論語・孟子・大学・中庸)によって、孔子・孟子の精神を把握し直すことで集大成かつ体系化したものでした。
その「朱子学」は「宋学」(宋代に確立した新しい儒学)として、鎌倉初期に移入され、室町期には鎌倉・京都五山の禅僧らにとって「五山文学」と「朱子学」の兼修は最高の教養とされていました。しかし京都五山は「応仁の乱」ですべて兵火にかかり、また幕府の勢力が急速に後退したため、その保護下にあった五山も荒廃、地方に下る禅僧も多くなり、「五山文学」は衰退しました。
2、桂庵玄樹(1427~1508)の経歴
地方に下った多くの禅僧の中に、これから紹介する「菊池文学」に関係の深い桂庵玄樹がいました。桂庵は応永三十四(1427)年、周防国赤間関(現・山口県下関市)に生まれ、桂庵は道号、玄樹は諱、島隠と称しました。永享七(1435)年9歳の時に上洛、南禅寺の仏門に入りました。桂庵は参禅と同時に惟肖得巖・景徐周麟について修行、嘉吉二(1442)年、桂庵(16歳)は剃髪・受戒(得度)しています。
桂庵玄樹
その当時、京都五山の一つ東福寺を中心に、儒典の研究(「宋学」理論の研究)が盛んに行われ、多くの儒典の専門家が輩出しました。その師は東福寺首座寮の岐陽方秀(きようほうしゅう、1361~1424))で、朱熹の『四書集注』の和訓書を作成しています。桂庵は雲章一・翺之慧鳳(こうしえほう)・文之玄昌と共に、方秀の門下として朱熹の『詩集伝』や『四書集注』を修学しています。
その後、桂庵は故郷の赤間関の永福寺の住持となり、さらに豊後の万寿寺に参じ、景浦玄忻の法嗣(はっす、師から仏法の奥義を受け継いだ者)となりました。応永元(1467)年、ちょうど「応永の乱」が始まった年、桂庵(41歳)は、第八代将軍足利義政の遣明使に雪舟と共に随行、翌応永二(1468)年に北京で明の憲宗に謁見、その後約7年間蘇州・杭州に遊学しています。
その間漢詩文に長じた桂庵は、蘇・杭の賢士大夫たちと交遊、明儒から「宋学」の影響を強く受け、『尚書』では南宋の蔡沈の『尚書集伝』、『四書』の講義では元の倪士毅の『四書集釈』や曹端の『四書詳説』を使用しています。また「朱子学」の「新注」を学び、桂庵(47歳)は「応仁の乱」の最中の文明五(1473)年に帰朝しました。
桂庵は京都に帰ったものの、京都五山は前述のように兵火で焼かれていました。桂庵は直ちに難を逃れ、石見や長門の永福寺に滞留、その後九州に入って筑後・肥前を巡歴しています。そして肥後国を遊歴中、桂庵(51歳)は文明九(1477)年に菊池為邦(長享二〔1488〕年死去〔59歳〕)・重朝父子に迎え入れられました。桂庵の菊池滞留はわずか1年でしたが、その時の様子は次号で見ていくことにします。
文明十(1478)年二月には、桂庵(52歳)は薩摩国の島津忠昌の招聘に応じ、31年間にわたって、「桂樹庵」で門人たちに「宋学」(朱子学)を講じ、永正五(1508)年六月薩摩で死去、享年82歳でした。一説には、日向の安国・龍願の両寺および京都の建仁寺・南禅寺に住み、また大隅国の正興寺に住し、最後に薩摩で「東帰庵」を開いたとされています。
3、「桂庵学」の特徴
桂庵は、遣明を機に従来の「五山文学」の「古注」・「新注」の折衷ではなく、「宋学」の「新注」によって「四書」(『四書集註』)・「五経」、「周易」(『周易本義』)などを講説、完全に「五山文学」の学風から解放され、「宋学」の「新注」を力説・普及しました。江戸期の「昌平黌」教授佐藤一斎は、この桂庵を「身は禅衣を披ひ、心は闕里(孔子の住所)に服す」と評し、桂庵の「陽禅陰儒」の本質を看破しています。
その桂庵には九州各地に数多の門人がいました。次号で詳述する肥後国の菊池為邦・重朝父子および菊池一族・家臣もその一例です。桂庵の行く先々で、「国都(一国の都)、頃(近頃の意か)仲尼(孔子)の道興り、東魯(孔子生誕地、魯の昌平郷か)の風移る」と言われるほど、九州一円に「宋学」を普及し、大きな影響力を持つことになりました。
4、「薩南学派」の形成
特に文明十(1478)年、島津忠昌に招聘された桂庵玄樹は「島陰寺」(桂樹院)の住職となり、ここを拠点に「薩南学派」を形成しています。桂庵門人には島津氏をはじめ、重臣の島取政秀・伊地知重貞・平山忠康たちがいました。
このうち伊地知重貞は文明十三(1481)年、『大学章句』を刊行(文明板大学)、多数の印刷で10余年後には版板擦り切れてしまい、延徳四(明応元〔1492〕)年には改板(延徳板大学)しています。
桂庵の没後は文之玄昌(島津義久・義弘・家久の知遇)が中心となり、明の儒者黄友賢の指導で、北宋の周敦頤(しゅうとんい)や二程(程顥〔ていこう〕・程頤〔ていい〕)の学説を修得し、「公および士大夫のその門に遊ぶ者、禅を問ふ者は少なく、みな朱注を受く。これによりて、三州(薩摩・大隈・日向)靡然として風を嚮ふ」の状況になり、桂庵の「朱注」(「新注」)は大好評でした。
また薩摩国の月渚・舜田・郁芳・雲夢らの禅僧を通じて、「朱子学」の「新注」は「桂庵説」として孫門人たちに伝授され、桂庵が考案した「桂庵点」は啓蒙的公開の訓点として、藤原惺窩に取り入れられるなど、近世朱子学の興隆の土台となりました。江戸前期の寛永初めには、玄昌門弟如竹が『四書集註』や『周易伝義』を刊行しています。
おわりに
室町時代は政治的には不安定だったにもかかわらず、非常に多種多様であった「室町文化」が生まれ、それらの地方波及や文化の主流の「五山文学」や「大義名分論」などについて見てきました。説明がかなり煩雑になってしまったので、十分理解していただけたかどうかが心配しています。
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