[2022年11月号] 熊本・菊池の歴史アラカルト

とっておきの                           2022年11月号

 熊本・菊池の歴史アラカルト (16)

『菊池の偉人・賢人伝』⑦-宗伝次の事績と人となり

堤 克彦(熊本郷土史譚研究所所長・文学博士)

十八世紀末の寛政頃、菊池地方で「菊池氏顕彰運動] が始まった。前号で紹介した渋江松石の『菊池風土記』も宗善右衛門尉重次著『菊池温故』などもそうであった。その渋江松石のパトロン的な人物が、当時の隈府町随一の豪商宗伝次(1731~1827、諱は英盈)であった。

角田政治著『贈従五位 宗傳次』(肥後地歴叢書刊行会 1928年)は、末裔の宗継志の依頼によるものであった。   宗伝次肖像(一番館所蔵)

菊池宗家の初代は平知盛の子知邦で、「壇ノ浦」では幼児故に助かり、成長後は筑前の領主原田種直の庇護をうけた。「宗」姓は宗像大明神から「宗」の一字をもらった神夢によるという。

二代の種国が宗対馬守、六代盛真の時、菊池十五代武光の家臣となり、以後菊池氏滅亡まで、菊池氏の忠臣であるばかりでなく、菊池氏とは姻戚関係にあった。十七代久隆の代、菊池二十四代武包(たけかね)の時に菊池氏は滅亡した。その後宗家は浪々の身になり、民間に下り隈府町に居住、二十一代久重の時に隈府町別当を命じられた。二十六代重富の努力と成功で富裕となり、それを受け継いだのが二十七代の伝次であった。

宗伝次は、先祖が仕えた菊池氏の顕彰のため、安永八(1779)年四月に正観寺境内に菊池十五代武光の「菊池正観公神道碑」建立に経済的援助をした。その背景には前述した宗盛真が武光の家臣となった時からの菊池氏の君臣関係があった。

また寛政三(1791)年夏には、現在の菊池神社の参道脇に、菊池氏代々の追善供養のための「一字一石塔」を建立している。宗家の菩提寺は「正観寺」にあるが、宗伝次の墓は荒廃した妙蓮寺を独力で再建したこともあった同寺境内にある。

その宗伝次は、寛政七(1795)年六月に、先祖への感謝を子孫に説いた『申残す覚』、また寛政九年には、質素倹約・景気判断・油断禁物等々、商売人の心得を『永代当家訓』六十二条として認める根っからの豪商であった。

また宗伝次は河原手永の飢饉・凶荒、隈府町の大火には率先して私財を以て「救恤慈善」に尽力し、肥後藩には種々の寸志や藩主の参勤交代費用の供出など、その他社会救済や公共事業にも「多大の金穀」を喜捨している。

一方文化風教にも関心が深く、僧侶で書画家の豪潮・再春藩医師の村井琴山・藩御用絵師の矢野良勝などをはじめ交遊関係も広かった。また宗伝次自らが文芸をたしなむ風流人であり、松永貞徳の流れを汲む俳人で、俳号は「菊山人東籬」であった。

天明五(1785)年二月から九月にかけて東国行脚、その旅程は菊池-山鹿-豊前街道-下関-瀬戸内海-室津-京都-東海道-身延山-箱根山-鎌倉-江戸-日光-中仙道-京都-大坂-山陽道-湊川-豊前街道―菊池であった。

その時の『三津之杖紀行』から、伝次の人となりを垣間見ることのできる俳諧を紹介しておきたい。旅立ちにあたって「帰るまで我巣を守れ燕(つばくらめ)」、山鹿の鍋田までの親戚・知人の見送りに、膝の上に六歳の孫を乗せ、緑髪を撫でながら、「蝶々に気をうつさせて別れ哉」、また無事に帰った喜びを「元の座で笑ひ会たる新酒かな」などと詠んでいる。細やかな観察眼からの軽妙な俳風はまさに「俳諧」の真髄そのものであった。(無断転載禁止)



HP用

隈府町人の商魂-宗伝次


(「くまもと郷土史譚つうしん」第12号・2012年3月15日発行より転載、一部訂正)


はじめに

 中世の菊池氏の守護町は、現在の立石地区の「古町」を中心に栄えていました。菊池氏没落後、肥後国の中心は隈本(後の熊本)城下に移りました。しかし江戸期の隈府町の中心は、加藤清正の町作りによる上・中・下町となり、肥後藩でも非常に繁盛した商業の在町(田舎町)の一つでした。

 その在町隈府の豪商たちのほとんどは、かつて菊池氏の一族や家臣たちの後裔であり、菊池氏滅亡後、そのまま土着した家柄でした。また隈府町周辺に定住した豪農たちの出自も、多くが菊池氏と何らかの関係のある家柄でした。

 文化十四(1817)年に宗伝次写の『菊池家代々并び肥後年代記』によれば、「菊池七家」とは、宗・阿比古・加藤・益田・天王寺・大塚・荒木の各氏で、また「十三家」として、平嶋屋・嶋屋〔岡山氏也〕・冨田屋・茨木屋・下坂屋・豊後屋・古手屋・丹後屋・仲嶌屋・渋江・竹田屋・東海屋・阿屋の屋号を持つ豪商たちがいました。

隈府町には「生まれながらにして五位」(公家出身の末裔)の俚言がありました。上記の家々の豪商たちには、初代菊池則隆が自分たちはその菊池一族や家臣の末裔であるとの出自の誇りと自負があり、江戸期の在町隈府の自治は、その後裔の豪商たちを中心に運営されました。

 「隈府町人の商魂」を語る時、まず隈府豪商たちが書き継いだ『嶋屋日記』(原本・菊池市教育委員会蔵、刊行本・花岡興輝編/菊池市史編纂委員会)を取り上げ、彼らが『嶋屋日記』にかけた熱き思いを見ていかなければなりません。

その上で、「菊池七家」の「宗氏」からは宗伝次、「十三家」の「仲嶌(中嶋)屋」からは中嶋伊次郎(後述予定)を取り上げ、この二人から垣間見られる「隈府町人の商魂」を考察してみたいと思います。この二人はこれから紹介する『嶋屋日記』にも登場するばかりでなく、かつ日記の継続に積極的・中心的な役割を担った隈府の豪商でした。


一、『嶋屋日記』

 『嶋屋日記』は、江戸前期の寛文十二(1672)年から幕末の文久二(1862)年までの約190年間(江戸全期〔264年間〕の72㌫にあたる)にわたって、在町隈府の豪商、志満屋市兵衛・横屋九兵衛(宗伝次)・岡山仙助・宗文五郎・中嶋真親ら5人によって書き継がれた日記で、江戸期の菊池地方を知る上でのまさしく第一級の地方(じかた)文書です。

志満屋市兵衛の「年々鏡」(寛文十二〔1672〕年~安永四〔1775〕年の103年間)と横屋九兵衛(宗伝次)の「年々鏡」(寛文十二年~安永四年の103年間)は、それまで書き継がれた隈府豪商の個人日記から抜粋したダイジェスト的な所も見当たりますが、安永五(1776)年以降は、文字通り豪商たちのバトンタッチによって書き継がれたものでした。

そのことは、岡山仙助の「永代後用実録日記」(天明二〔1782〕年~同五〔1785〕年)の最後に、異筆(おそらく宗文五郎の筆と思われる)で「是迄仙助扣(控え)置き候へども、病気次第におとろへ、終に巳(天明五年)十二月十日晩四ツ時(午後10時)死去、仍(よ)って此の後文五郎請け次(まま、継)ぎ、別帳ニ仕立て、不相替(あいかわらず)扣え置き申し候事」(刊行本466頁)との書き込みがあります。宗文五郎の「永代後用実録日記」(天明五年~寛政四〔1793〕年)は、同年十二月二十五日、即ち岡山仙助死後15日から書き始められていました。

 なぜ「隈府商人」たちは、このように懸命になって『嶋屋日記』を書き継いだのでしょうか。別に肥後藩庁などの公的機関からの強制も命令もありませんでした。まったく自主的な豪商日記です。その記事は、各時代の執筆担当者の個人的なもの・半公的なもの・公的な出来事などが含まれ、多種多様な内容からなっています。

 前述した通り、『嶋屋日記』は1人の個人日記ではなく、世代を越えた5人の隈府豪商たちが、江戸期190年間の菊池地方の動向や様子を中心に抜き書きしながら、さらに書き継いだ日記でした。その継続方法といい、その期間の長さといい、全国的にも稀な逸品です。

 私たちは『嶋屋日記』の歴史的な価値と意義を再確認すべきだと思っています。しかし残念なことに、これまで本格的な分析や研究が一度もなされないまま、現在に至っています。

この息の長い大事業を可能にしたのは、隈府豪商のチームワークのよさだけではなく、その情熱的なエネルギーとその背景にあったものにも注目する必要があると思っています。即ち何としても書き継ぎ、190年の長い間にわたって書き続けた理由と目的の解明が必要でしょう。

 これらを繙くキー・ワードとして、前掲の「生まれながらにして五位」という菊池俚言に注目にしています。幕末に横井小楠とともに隈府町を訪れた会津藩士橋爪(詰)介三郎が、水戸藩の藤田東湖に「肥の菊池の民、今に元弘・建武の事を慕ひ、田夫、野老といへども、猶ほ慨然として之を語る。人心に固結するの深き、実に感愴に堪へず」(藤田東湖編著『見聞偶筆』)と語っていました。隈府の豪商や地元の者たちには、南北朝期の菊池氏や家臣の遺民という強い誇りと自負が心深くにしかも濃厚であったことがわかります。

 この隈府豪商たちは、菊池氏の没落後、菊池氏の守護町隈府にそのまま定住し、江戸期には「町庄屋」「町別当」などの地方役人をしながら、在町の自治経営の中心的な存在でした。そのことが、主君菊池氏亡き後の隈府町は、家臣の後裔である自分たちが責任をもって面倒見て守っていくという気概となっていたのかもしれません。それと同時に「生まれながらにして五位」という気位の高さが意識的に醸成されていったものと思われます。

 加えて加藤氏も細川氏も、肥後入国以前すでに滅亡していた菊池氏に、領主・歴代藩主として一目を置き、元禄頃までは「奉行所」支配でした。そのこともあってか、隈府豪商たちは、菊池氏の元家臣の末裔との自負心を絶やすことはなかったのかもしれません。

 しかし『嶋屋日記』の安政四(1858)年三月の記事に、「町の者兼てわいふハ五位の位」の俚言について、やや揶揄的に「惣たい気ぜん(気前)高く候より御製(まま、制)度之品等を背(そむ)キ申すより之事」、即ちこの気位の高さにより少なからず肥後藩体制に批判的なところがあると反省しています。またこの文言に対して、「町の士風ハノボセ也」とか「五位のくらいといふハ、将軍之宮の位ヲ次テ、菊池の遺民の方言也」との書き込みもなされています。

 ただ隈府豪商たちのこの「生まれながらにして五位」という出自の誇りと意地があったからこそ、長期にわたる『嶋屋日記』は書き継がれたと思われます。しかし『嶋屋日記』は文久二(1862)年で突如終筆、その理由は何だったのか。その歴史的解明が不可欠です。


二、宗伝次の商魂

1、出自

 すでに見てきたように、「隈府商人」は前掲の「旧七家」と「豪商十三家」を中心に二十家で構成されていました。その「旧七家」の中に宗家が入っていました。

 角田政治は、前出の『贈従五位・宗傳次』の序文で、「菊池に名門あり、宗と云ふ、対馬の宗家と其源流を同じくす。(中略)菊池の宗家は我が菊池に在りて、代々菊池氏に仕へ、入りては其の姻戚として菊池氏を輔け、出ては其の武将となりて、千軍萬馬の間に馳駆し、菊池氏が勤王の大麾を西陲に翻したる赫々たる武勲は。宗家に負ふ所少からざるべし。菊池氏没落と共に、宗家も民間に降り實業に身を投じ、細川公時代に於ても、唯々其の客分として禄を受けず、以て綿々今日に及べり」と記しています。


2、宗家の経営と寸志規模

 宗家の第十七代宗久隆(源左衛門)は、「天文二十三(1554)年菊池家没落ノ後、浪々ノ身トナリ隈府町居住」し、第二十一代宗久重(備前守)の時に「隈府町別当」を仰せ付けられています。江戸期を通して、宗家は「農業を勵むと共に、商業に力を盡し」、第二十六代重富(市左衛門)の時に「富裕」となりました。その養子となったのが横屋九兵衛即ち第二十七代の宗伝次(1731~1827、諱は英盈)でした。宗家は、この伝次の時、在町隈府の代表的商家として町運営の中心的存在でした(『贈従五位・宗傳次』宗氏系譜)。

 宗伝次は享保十六(1731)年十月二十五日、隈府町に生まれました。「士席浪人格帳」(熊本県立図書館蔵『公文類纂』)によれば、明和二(1765)年、三十五歳の伝次は、九代藩主細川治年(胤次)の江戸出府の寸志銀(20枚)を差し出し、同年九月には「麻上下・傘・脇指(差)御免」、また同四年(1767)五月には「九兵衛家内共ニ右品々御免」になっています。

 また伝次は、安永年間には河原手永の「囲籾蔵」建築寸志銀(2貫950目)、正観寺村の「囲籾蔵」修理寸志銭(400目)、河原手永輪足村・片角村・築地村零落の救済寸志銀(5貫目)などにより、安永五(1776)年三月、46歳の時「士席浪人格」となり、名を「宗傳次」と改めました。

 さらに養子後の宗伝次は、河原手永会所・囲籾蔵引直しの造用および零落者への借米棒引きにより、御紋付上下・帷子を下賜されました。その後も同様な寸志の他に、凶作無利子貸与、下方難渋・火事・水害救済など、寛政八(1796)年十二月に隠居するまで寸志を継続しています。(但し角田政治著『贈従五位・宗傳次』では寛政七年十二月となっている)もちろん、寸志を差し出したのは宗伝次ばかりでなく、『嶋屋日記』の「寸志一卷控」には、宗伝次と共に嶋屋市兵衛の名が見えます。

 このように「隈府商人」たちは、寸志を通じて藩政に経済的な寄与をし、その一方で「隈府町」の政治・経済・文化などをがっちりと掌握していました。それを可能にしたのは、当然ながら各豪商たちの経済的な収益即ち財力でした。

 岡山・宗・中嶋・竹田の各氏の本業は「造酒屋」でしたが、もちろんそれだけではなく、他にも「古手屋」(古着屋)や「高利貸」を営み、米穀類の刻々と変動する相場にもアンテナを張り、大坂商人との取引、煙草や菜種の買い込みなどをも兼業する総合商社的な経営手腕を持っていました。

 それに加えて、これらの豪商たちは、惣庄屋のもとで地方支配役として「町庄屋」や「町別当」を兼務していましたが、単なる在町役人ではありませんでした。寛政四(1792)年十月に酒の造りすぎで過怠米の罰をうけた時などは、造酒制限の布達を忘れた惣庄屋三池長左衛門を更迭するなど、肥後藩庁の郡政人事を左右するほどの政治的力量を保持していました。


3、隈府商家の序列

 この二十家の商家には、富裕財産の有無やその多寡に関係なく、在町隈府での歴然とした序列が出来ていました。その序列は「松囃子能」の桟敷かけ順に象徴されていました。その序列がどのようにして出来上がったのかは不詳です。

 おそらく「松囃子能」の時の桟敷かけ順は、最初は菊池氏の家臣時代の序列に依拠しているのではないかと思われます。即ち南北朝期そのままに、正面に懐良親王や菊池武光とその側近や一族たちの桟敷、その左右に「一番」「二番」「三番」の桟敷、そしてその周辺にいくつかの桟敷が設けられたと考えられます。

 『嶋屋日記』には、寛政十二(1800)年の能舞台の披露目の桟敷順について、「一番岡山方桟敷ニシテ、二番手前(宗家)之桟敷、三番中嶋伊次方かけ申候、其後は又々以前之通りかけ来り候事」と記されています。これは当初のまま「一番」が岡山家、「二番」が宗家、「三番」が中嶋家の桟敷であり、その周辺の桟敷は、これまでの慣習を踏襲した「以前之通り」の掛け方であったことがわかります。

 中嶋家の出自は「薩州島津藩ノ臣」で、菊池氏の家臣ではありませんでしたが、「三番」桟敷となっています。そうしますと、この桟敷かけ順は、江戸期の在町隈府での豪商たちの富裕度(経済力)が、この序列の決定に大きく関係していたとも思われます。


4、宗伝次の『永代當家訓』

 商家の盛衰は、当然ながら商家当主の経営手腕の善悪に大きく関係しました。また「隈府商人」だけではなく、日本全国の商家に共通することでしたが、商家にとっては、如何にして何代も当家を存続させるかが最も重要な目的でした。

 各商家が「家訓」を作ったのは、裏を返せば、商家の没落を極端に恐れたからでもありました。その商家に伝わる「家訓」によって、没落を免れるための経営方針を知ることができます。「隈府商人」二十家にも、それぞれ「家訓」があったはずですが、現在の段階では、宗伝次の『永代當家訓』六十二条しかわかっていません。是非乞御教示。

 宗伝次が寛政七(1795)年六月に著した『申残す覚』は、父重富(鷲峰院)の努力と成功によって、宗家が富裕になったことに感謝し、つぎのように認めています。


 世上困窮の時節に候得ば、諸民のうき・難儀をおもひ合せ、とかくに身も奢り無き様に心を用ひ、慈悲の心おこたりなく、従者をあわれみ、先祖の恩沢の深きことをわすれず、殺生を禁じ、信心にして、善行を専らと心得ありたし。


 また大病を機に隠居した宗伝次は、同九(1797)年二月に『永代當家訓』六十二条を認めました。その後、伝次は古希・米寿・卆寿を優に越えて、文政十(1827)年五月二十八日に九十七歳で病死しました。その『永代當家訓』の一部から、隈府商人の心構え、即ち「商魂」を垣間見ることができます。その一部を紹介したいと思います。( )内はその大意です。


『永代當家訓』

・帳面第一、念を入れ、油断無く相しらべ、間違ひ無き様、心懸け申すべき事。(「大福帳」を大事にし、毎日油断なく正しく記帳することが大切である)

・元日より歳暮迄ノ内、五節句は申すに及ばす、臨時の客来之れあり候共、倹約専らにして過分の仕方仕り間敷事。(元旦から大晦日まで一年中、五節句であろうが、臨時の来客の待遇は「倹約専一」に考え、決して過分の饗応はしてはならない)                       

・朝夕喰物並びに衣類等迄平日奢り申す間敷、客来の節は客の人数に応じ、魚鳥雑事類調(ととのへ)方心得第一也。下直(安価)なりとて、無益に調ふべからず。客来の時は高直(高値)なりとて調へざるも又無礼也。酒も其時々にして平日取置き申す間敷事。(日常の生活は質素を旨とし、来客の時は、その人数の応じて饗すように心がけよ。安いからといってむやみに準備せず、高いからといって準備をしないのは失礼である。また酒はその時々に買い求め、決していつも自宅に買いだめしていてはいけない)

・商売方平日心得第一、片時も油断無く工夫仕り、東北国は申すに及ばず、上方表・中国辺、上作・不作を問合せ、米穀・雑穀共、考え第一の事。(商売は毎日の心得が一番大切で、東北地方はいうまでもなく、上方〔関西〕や中国〔山陽・山陰〕あたりまで、かなり広範囲に米穀・雑穀の出来・不出来を問い合わせて、相場の動向を見極めて対処せよ)         

・何品によらず、直段(値段)十分に上り詰め候時、売り申すべきとは不覚の至りなり。八分九分に至り候はば、はや売りにかゝり申すべき候。若し九分位より直に下りはな(下がり鼻)にむき候はば、其時の相場より少々引下げはなし(放し)申すべし。油断すべからず。(商品は最も値段が上がった時に売ってはいけない。八・九分目での取り引きが肝心である。値段が下がり始めたら、その相場よりも少々引き下げて売れ。その見極めは決して油断するな)                        

・商事思い筋に利益得候節は、人毎のり気出で申し候。左様の時分能々勘弁第一にして、内端に仕り申すべき事。(この商品が思い通り、実際利益が出始めたら、他の商人たちも必ず参入してくる。そのような時こそ、やりくりを大事に考え、自らをきちんと正しく調え、その状況をよく見極めなければならない)                        

・出火の節は、兼て火元へかけ付人極め置き、下女・下人夫々役割申し付け之通り、書き付け張り置き申すべき事。(出火には、日頃から初期消火の担当者を決めて置き、他の使用人たちは、割当て通りの消火活動がすぐにできるように消防班表を掲示しておく)                       

・主人たる者は片時も家業の事忘るべからず。商売にて利益あると計り思べからず。昼夜目前の事に心を用ひ、堀りの中・道はし抔に捨り居候縄・竹等に至る迄、用に立ち候よふの物はひろいとり、捨り物を捨ぬよふに致し候事、利益の至なり。(商家の主人は商売第一であるが、商売はいつも儲かると思ってはならない。昼夜分かたず、いつも目の前や周辺のことに気を配り、例えば堀の中・道端に捨ててある縄・竹などでも、用に立つような物は拾っておき、必要でなくなった物でも容易に捨てないことが利益の極意である)


5、商家の盛衰と養子縁組

 商家の「養子縁組」は、各商家がお互いに嫁取り・婿取り・養子・養女などにより、自家の血縁的断絶の危機を防止するための方法でした。同時にそれは、商家同士の家格を重んじた婚姻関係であり、相互に非常に濃厚な姻戚・縁戚関係を作り上げていました。その好例として、『嶋屋日記』を書き継いだ志満屋市兵衛(「角嶋屋」)・岡山仙助(「綿嶋屋」)・横屋九兵衛(「横嶋屋」)・宗文五郎・中嶋真親(「中の嶋屋」)らの親子・兄弟関係を上げることができます。

 「横嶋屋」の横屋九兵衛は、寛延三(1750)年二月、二十歳頃か、宗家の養子になり、宗伝次と名乗りました。その二人の実弟のうち、仙助は時期不詳ですが、「中の嶋屋」の中嶋伊次郎の養子になり、中嶋仙助を名乗りました。また彦兵衛は「綿嶋屋」の岡山仙助の幼子吉十郎の後見・世話役になっています。ただ「横嶋屋」は、天明三(1783)年四月頃、横屋佐次郎の代で没落してしまいました。

 また『嶋屋日記』の弘化二(1845)年に、非常に興味深い記事が掲載されています。それは「身代ト申候者ハ、左様連メン(連綿)ト続き候物ニ而も無之、田舎ニ而ハ馬鹿ニも子孫(血縁)ニ引譲リ申候物ニ而、京・大坂辺之様ニ、手代(非血縁)ニ而も好(よ)キ者へ引譲リ候儀無之候間、久しく続キ不申候事ハ、世の人の知ル処也」と、在町では京・大坂のように優秀な「手代」がいるわけではないので、「馬鹿ニモ」譲ってしまうと、「隈府商人」の血縁主義を批判しています。

 しかしこの血縁主義の背景には、菊池氏家臣の後裔である隈府豪商の「生まれながらにして五位」という気位が足かせとなり、没落の要因となった例もあったかもしれません。


6、「菊池正観公神道碑」と「一字一石塔」

 「宗氏系譜」によると、「天文二十三(1554)年、菊池家没落後浪々ノ身トナリ、隈府町居住」した第十七代宗源左衛門久隆から、隈府町の宗氏が始まりました。その後、江戸前期の明暦~寛文期(1655~1662)に活躍した宗善右衛門重次(不明~1681)は、第二十代宗善左衛門尉重貞に比定されます。この重次の時に、隈府町での本格的な「菊池氏顕彰運動」が始まりました。

 宗重次は、明暦二(1656)年に菊池氏にゆかりの深い北宮神社の再興、寛文三(1663)年六月に松囃子能の翁面問題の解決に銀子を融通し、延宝元(1673)年には北宮神社の梵鐘寄進、また寛文~延宝期(1661~1681)に『菊池温故』(一説には『菊縣温故』)を著述しています。

その後、宗四郎兵衛(重次の孫)は、享保十七(1732)年『菊縣温故』をもとに、新たに『菊池温故』を追補、その60年後の寛政六(1794)年には、菊池の和漢学者渋江松石(公正)が、さらに加筆・増補した『菊池風土記』を刊行しました。

 また宗伝次は、安永八(1779)年四月には菊池十五代武光の顕彰碑の「菊池正観公神道碑」を正観寺境内に建立、天明元(1781)年に竣工しています。この建立の背景には、南朝正統論者水戸光圀が幕府への気遣い、個人的な行為として、元禄三(1690)年に兵庫の湊川神社境内に「嗚呼忠臣楠子之墓」に建立したという経緯がありました。

宗伝次もその光圀にあやかり、幕府や肥後藩への配慮から、あくまでも菊池氏家臣の後裔として、主君菊池武光を顕彰するという方法で、「菊池正観公神道碑」を建立しています。その碑文は藪孤山、書は渋江紫陽(公豊)で、この碑の建立に中心的に協力したのは前記の渋江松石でした。

 さらに宗伝次は、寛政三(1791)年の仲夏に、やはり菊氏代々の追福のため、菊池城跡に「一字一石塔」(「醍醐経一字一石一部之塔」)を建立しています。その請願と許可のために、郡代神山忠兵衛に宛てた文書は、つぎのようなものでした。


経歴                           

 益々御勇健御座成られ候半んと珍重の御義と存じ奉り候。然らば私儀、菊池家に由縁之れ有り候に付、菊池代々の追福、且つは所柄安営の為、法華経一字一石を写し仕り候。幸い菊池城墟に空き地御座候處に納め申し度く存じ奉り候。右の段御支配所の儀に付、憚り乍ら御内意申し上げ置き候。御聞き置きなされ下さるべく候。以上  

      寛政三年亥五月十六日         宗 伝次         

       神山忠兵衛様                        

尚々場所の儀は、深川手永高野瀬村内空地にて御座候。 

 

これに対して、神山忠兵衛から六月二十三日付の返書が届いています。その中で「菊池古城跡に御書き写しの石経、御得納成られ度き由に仰せ越され候趣を以て、所柄吟味に及び候處、故障之れ無きに付、御役所へも相達し仕り候處、御願ひの通り相済み申し候。花塔を御立て成られ候儀にも候はゞ、高さ四尺以下は苦しからざる旨に御座候」と認められていました。この「一字一石塔」は、菊池神社の正面参道の左の木立の中に立っています。

 江戸期の「菊池氏顕彰運動」は、このような隈府町在住の菊池氏家臣の後裔である豪商の有志がパトロンになり、「南朝正統論」者の和漢学者を中心に、菊池氏と自らの祖先を顕彰するという方法で、その端緒を作りました。


7、隈府の豪商・宗伝次-俳人・菊山人東籬の句より

 宗伝次は隈府町の豪商であるばかりではなく、豪潮・村井椿寿・矢野良勝などの肥後藩の著名な文人との交流がありました。その上「菊山人」「見菊舎」「東籬」「不朽坊」の俳号を持った俳人でもありました。伝次は、松永貞徳の流れを汲む「貞門派」で、直接には北村隆志(錦花翁と号す)に師事していました。(前出『贈従五位 宗傳次』)いつ頃からは不詳です。

 松永貞徳(1571~1653)は、織豊時代に和歌を細川幽斎(藤孝、歌人で肥後藩主細川氏の祖先)に、連歌を里村紹巴(じょうは)に学んだ人物で、和歌や歌学を地下(じげ)の人々に教え、狂歌も近世初期の第一人者でした。貞徳が俳諧に傾倒していったのは晩年になってからのことで、『俳諧御傘』を著して、「俳言(俗語・漢語)を用い、言語上のあそびを主とする」俳諧の式目を定めた「貞徳俳諧の祖」でした。

 さて宗伝次こと「東籬」には『紀行三つの杖』『俳句集』『俳諧庵の爐話』などの遺稿があります。五十五歳の時、天明五(1785)年二月二十二日に隈府町を旅立ち、往路は太宰府→瀬戸内海→讃岐(金比羅)→宮島→一の谷、さらに大坂→京都→琵琶湖→東海道→鎌倉→江戸(泉岳寺)→日光へ、復路は信濃→中仙道→木曽→京都→湊川(楠正成墓)→瀬戸内海を経て、九月十四日に帰るまでの東国紀行をしています。『紀行三つの杖』は、その時詠じた俳諧63句、狂歌3首を集めたものです。

 その中に、東籬が隈府町を出立するに当たって詠じた「帰るまで我巣を守れ燕(つばくらめ)」、また山鹿郊外の鍋田川まで家族と一緒に送ってきた六歳の男の孫を膝に抱き、その子の髪をかき撫でながら詠じた「蝶々に気をうつさせて別れ哉」があります。自らのなごりを惜しむ気持ちと心の動揺を孫に移して詠じる手法はなかなかのものです。さらに隈府に無事に帰着した喜びと安堵感を「元の座で笑ひ会たる新酒かな」と詠じています。いずれも素直に自然と東籬の口から出た秀句といえましょう。

 この道中の東籬について、後藤是山は「彼の東国紀行三つの杖には大阪、京都、江戸は勿論芭蕉の墓を義仲寺に訪うて居るけれど、句友に就いて一も記されて居ないのを見れば、中央の俳人とは全く交渉が無かったのであらう」といっています。

 また文政十二(1829)年五月二十八日、東籬の三周忌にあたって、妙蓮寺(現・菊池市内)境内の墓前に、弟子たちが一対の石塔を建立しました。そこには「貞徳翁末流見菊舎(東籬の号)門人中」と彫られています。これからも東籬が松尾芭蕉(1644~1694)の「蕉風」俳諧ではなく、言葉の軽妙さや遊び心を楽しむ「貞門」俳諧であったことがわかります。


おわりに

 一方この時代の山鹿地方では、「蕉風」俳諧が盛んで、「俳諧社中録」や「俳友録」などが作られ、その中には多くの俳人の名が列記されています。また山鹿市内の寺院内には「芭蕉塚」が建てられています。しかしながら菊池地方には「芭蕉塚」の一基も見当たらないようです。乞御教示。

 前掲の「俳諧社中録」「俳友録」には、いまの行政区でいえば、熊本県内では、玉名市・南関町・三加和町・長州町・菊水町・鹿央町・山鹿市・鹿北町・鹿本町・熊本市・八代市・宇土市・阿蘇郡、福岡県の瀬高町・柳川市などの俳人の名はあります。菊池地方は避けたように一人の俳人名も出てきません。こんなに近距離なのに、山鹿と菊池の社中間ではほとんど交流がなかったようです。

 ところが過日、虫臂堂風斜編の『蛍塚集』(鹿本教育振興会『鹿本郡郷土研究資料集』第一輯所収)に、当時三十六歳の東籬の前書付けと俳諧があるのを発見しました。それには明和三(1766)年、山鹿の虫臂堂風斜が「己が火を木々の蛍や花の宿 芭蕉翁」という「芭蕉塚」(「蛍塚」)を日輪寺に建立した経緯と「蕉門派」の俳諧社中からの多くの句が収録されています。その最後に「追加」として、つぎのように記されていました。


虫臂(ちゅうひ)堂の風斜子、日輪精舎に蕉翁の石碑を崇建し、己か火を木々の蛍や花の宿といへる高吟を碑銘に顕し、都鄙諸風士法楽の吟を集めて、塚の供養満座し侍るよし。予も今世事にただよ(漂)ふのねふ(眠り)りさ(覚)めて、その厚志を感じ、拙なき愚章を捧げて、恐る恐る神霊をまつるのみ  徳はそも笠にかくれて郭公 菊池菊山人東籬

 

 菊池と山鹿の社中間には正式な交流はなく、あくまでも東籬と風斜の個人的にはあったようです。あるいは東籬は「貞門派」入門以前に、「蕉風」俳諧を嗜み、風斜はその時の俳友であったのかもしれません。




閲覧数:21回0件のコメント