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[2022年3月号] 歴史アラカルト

とっておきの                     

 熊本・菊池の歴史アラカルト (12)

『菊池の偉人・賢人伝』③-「寺子屋」と「私塾」


堤 克彦(熊本郷土史譚研究所所長・文学博士)


今回は江戸時代に文教菊池の人々が学んだ「寺子屋」や「私塾」について見ていきたいと思います。文教菊池の人々には、学者・医者から豪商・豪農、農民・町人などと幅が広いばかりか、学問の質が高かったことが、菊池郷の「地方古文書」(じかたこもんじょ)からわかります。これらの人々の学問は「修己の学」(自分を磨くための学問)に目的があり、明治初期の福沢諭吉著『学問のすすめ』にみるような「立身出世」のためではありませんでした。

文教菊池の人々は、年少者や青少年など後進の教育にも非常に熱心で、自宅に「寺子屋」を設けています。この「寺子屋」の名は、中世時代に寺院で僧侶たちから学んでいた子供たちを「寺子」といっていたのが、江戸時代にそのまま受け継がれたものです。

「古文書にみる熊本の教育」(熊本県 1994年)より

「寺子屋」の「手習師匠」は、僧侶・神官・武士・浪人・医者・町人・農民などの有識者たちで、子供(寺子)たちに「手習」(習字)を中心に、「読み・書き・そろばん(算盤)」を教え、今の小学校の初等教育程度でした。

入門した寺子たちの年齢はまちまちで、学年などはなく、「複式学級」式の個人指導のもと、師匠は一人ひとりの寺子の習熟度に合った「手習本」を書き与えました。全国に共通するのが「往来物」(手紙の書き方)でしたが、菊池郷で使用された上の写真のように、その地方独自の「手習本」もありました。

寺子が学ぶ「手習本」の文字(仮名・漢字)は、江戸幕府の文教政策により「御家流」であり、明治初期に全国1万5000ほどあった「寺子屋」で教えられました。授業は午前中までで、「線香一本が燃えてしまう」時間(約45分)の三コマほどでした。授業料はなく、親たちはわが子に家で取れた米・野菜・果物や自家製の味噌・醤油・香の物など、思い思いの品物を持たせて師匠への御礼としました。

基本的には「寺子屋」には誰でも入門できました。最初は富裕な子供たちでしたが、次第に庶民の子弟たちも普及しました。ただ貧しい家庭では、子供は家庭の重要な「働き手」だったので、「寺子屋」には通わせませんでした。「寺子屋」に入門したくても行けなかった利発な子供もいました。

「寺子屋」を終えた者の中にはさらに「私塾」に入門し、『論語』・『孟子』・『日本外史』の講釈など、中学校程度の中等教育を学びました。この「私塾」の隆盛が「文教菊池」の基盤でした。調査途中ですが、菊池郷の「寺子屋」には「三省堂」・「水明楼」・「蟠龍亭」(ばんりゅうてい)など34カ所、「私塾」は「清乃屋」(せいのや)・「古耕精舎」(ここうせいしゃ)」などが13カ所ありました。

寺子の数は、一「寺子屋」は20人程度から、多いのは200人にも及びました。男子だけでなく、女子も一緒に学ぶなど、「男女共学」の走りが見られます。菊池郷の旧家には「手習本」が残っていて、当時人々の向学心とその層の厚さが垣間見られます。

菊池郷では、「寺子屋」は文化十一(1814)年頃に始まり、明治五(1872)年の「学制発布」の直後まで続きましたが、「私塾」の始まりは「寺子屋」よりも早く、その嚆矢が、寛延元(1748)年の渋江紫陽の「集玄亭」です。

「私塾」の特徴は、師匠の専門性と明確な教育方針を持ち、多くの青少年がちはそれを学ぶために入塾しました。3代渋江涒灘の「鈞月亭」や5代渋江公木・公寧の「遜志堂」(そんしどう)には、肥後藩内外から多く来塾、「遜志堂」36年間の入塾生は優に1500人を越えていました。




【追加】

つぎの「菊池文教」の学者・文化人一覧」は、歴代渋江氏の「私塾」から輩出し、またはその周辺にいた学者・文化人たちが開いた「寺子屋」及び「私塾」です。まだまだ調査漏れの学者・文化人たちがたくさんいますので、これから徐々に追加しながら、さらにこの表を完成させていきたいと思っています。

「菊池文教」の学者・文化人一覧

旧菊池市

・大智(鳳儀山聖護寺僧)・桂庵玄樹(孔子聖堂で講ず)・隈部忠直(菊池持朝・為邦・重朝三代の忠臣、菊池万句、学者) 

【江戸以降】

・水足博泉(西照寺で子弟教養)

隈府町-渋江紫陽(公豊、集玄亭)・渋江松石(公正、星聚堂)・渋江涒灘(公豪、梅花書屋・後に釣月亭)・渋江龍淵(公隆、銀月亭)・渋江公穀(信一郎、八代郡種山郷文学教導)・渋江晩香(公木、遜志堂)・渋江龍伏(公寧、遜志堂、衆議院議員・国権党)・葉室黄華(世和、中小姓、藩侯侍講)・玄密(独芳・丹淵・釣雪、慈雲山広現寺僧)・僧円乗(西光寺と広現寺の寺名を持つ)・町野鳳陽(世徳・玄粛、侍医、再春館訓導)・田上松斎(医者、蟠龍亭)・城野静軒(弥三次、充通、書家、水明楼)・右田

喜十郎(静軒弟、本草学)・宗梅諄(尚盛、医者)・宗英盈(伝次、豪商)・中嶋伊次郎(豪商)・吉村義節(市次、神風連)・中尾五百樹(鬼太郎、菊池神社主典)

正観寺村-桑満負郭(伯順、侍医、再春館訓導、水石亭)

赤星村-高山蘭痴(謙太、滞経耕処)

深川村-高木豊久(甚之助、笛曲伝家)・高木直久(元右衛門、勤王家、槍術)・山田王庭章(医者)

西寺村-山田守敬(医者、精義堂)・高宮南陽(篤、外員侍医)・城鞠洲(允、再春館助講、楽山堂)・城菊薩(翼、鞠洲の嗣子、再春館助教)・城子徳(医者)

今村-木下韡村(業広、時習館訓導)・木下梅里(真弘、古耕精舎、時習館訓導)・木下助之(徳太郎、玉名木下家養子、衆議院議員・国権党)・木下広次(貴族院議員、京都帝国大学初代総長)・木下甚右衛門・木下作平・木下豊作(親子3代の木下寺子屋)

戸崎村-武藤環山(一忠、紫溟会)・武藤菊潭(虎太、環山の子、第五高等学校長)

神来村-中村六蔵(文学精舎)

村田村-河口新左衛門(庄屋、『土貢管見録』)

木柑子村-堤政泰(中原行晴の子、槍術)

迫間村-津々良一如(興福寺住職)・五島五郎右衛門(井手開鑿)

出身地不明-蟹江菊渓(静、儒医)・田上蟠龍(松斎、医者)・守山峯玉(岬、書家)


泗水町

別源(久米安国寺僧)

【江戸以降】

田島村-伊牟田泉(直治、神官、清乃屋)

村吉村-北島雪山(能書家、陽明学者、『肥後国郡一統志』)・後藤源左衛門(泰亮、砲術・測量術)・後藤実義(官平、数学、直整黌)

亭雲堂(飛熊村)、麻生塾(北住吉)、佐々塾(南住吉)、猿木塾(富納)、日置塾(永)、亀甲塾(村吉)、古庄塾(福本)、志賀塾(久米)、吉岡塾(三万田)


旭志村

【江戸以降】

妻越村-村上平内(正雄、剣術)・山隈権兵衛(惟義、湯船堤の造営)

姫井村-渡辺元隣・同寿碩(医者、習字・読書)

伊萩村-高浜権兵衛・同敏徳(士族、習字・読書)・渡辺省吾(医者、習字・読書)

弁利村-山口利英(算術・習字)


七城町

【江戸以降】

高島村-野中宗育(医者、三省堂)

加恵村-栃原漆潭(矯、五郎助、時習館訓導・中小姓)・栃原東皐(知定、助之進、時習館訓導・中小姓)・園木恍愷(震太郎、仏医)

水次村-中津義直(彦太郎、勤王家)・片山桃斎(元恵、医者)・石淵八龍(万寿、医者、楽只堂)

加茂川村-池田正賢(才平、算学・暦術・測量学士)

甲佐町村-宮村檪寿(寛忠、勤王家)


-『菊池郡誌』『肥後人名辞典』『新編菊池郡記』『熊本県大百科事典』や旧市町村史(誌)などより作成-


【追伸】 以上の他にもまだ「寺子屋」や「私塾」があると思われます。みなさんの居住地区にもまだ調査されていないものがあるかもしれません。この機会に是非住民の人たちで、居住地区に旧家があれば、そこを訪ねて古文書を見せてもらい、昔のことを知っている古老の話を頼りに調査されては如何でしょうか。きっと新しい発見があるはずです。そして江戸期の先人たちの向学心とその熱意を感じかつ学ぶのは如何でしょうか。そして調べてわかったことは何らかの方法で公表するか、「みんなの図書館」の方にお知らせくだされば幸甚です。(無断転載禁止)


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