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[2024年03月号] 歴史アラカルト~木下梅里~ 

とっておきの熊本・菊池の歴史アラカルト(23)           2024年3月号

                         

『菊池の偉人・賢人伝』⑭-木下梅里(小太郎)

 

                   堤 克彦(熊本郷土史譚研究所所長・文学博士)

 


木下梅里(1823~97)は、韡村と18歳も違う弟で、誰よりも兄の韡村を敬慕していた。弘化三(1846)年八月には、父衛門(伝左衛門)が梅里の孝行に感謝して敷地を提供した。梅里はその地に韡村から任された私塾を新築し、「古耕精舎」と命名した。兄韡村はその命名理由にひどく感心した。

梅里は兄の韡村に「古の学は耕し且つ養う、其の道(道理)は何如(いかん)」と問い、韡村は「予は未だ以て応ずるに有るにあらず」、即ち学問を学ぶ意義と目的は何かという質問に答えられなかった。

梅里は、学問とは「有徳者」に近づき、他の人びとに「人倫」を教導・共有する「治人」になることと解していた。即ち「修己治人」であり、「学びて、経(経書、四書五経)に通じ、将(まさ)に以て人倫(人としての道理)を明らかにする」ことであった。

「古耕精舎」の状況は、今村の「古耕舎遺趾」の碑文に「来学スルモノ数十百人」と、その盛況ぶりが記されている。また永青文庫の「町在」や『菊池郡誌』によると、各時期の「古耕精舎」の塾生数が、つぎのように具体的に記されていた。

・嘉永五(1852)年、梅里(29歳)現塾生94人、退塾生合計130人余

・安政五(1858)年、梅里(36歳)現塾生64人、退塾生合計200人余 

・文久三(1863)年、梅里(41歳)現塾生73人、退塾生合計300人余

・万延元(1864)年、梅里(42歳)隆盛期

・明治元(1868)年、梅里(46歳)現塾生110人、明治三(1870)年廃止

梅里が亡くなる一年前の明治二十九(1896)年に、城山公園に「梅里木下先生之碑」が建立され、その石垣には数多くの門弟たちの名前かびっしり刻まれている。「古耕精舎」や後の「熊本塾」の塾生たちの恩師梅里への尊信の厚さを十分うかがい知ることができる。

また碑文によれば、梅里は『海防私議』を献策する一方で、門弟数名を長崎に派遣して、西洋の兵式を学ばせ、また自らも銃を操り、隊伍を列し、1800余人の軍隊を編制するなど、時世の動きに対して素早く対応する積極的な行動力も持っていた。

その後、梅里は明治元(1868)年に時習館訓導になり、「古耕精舎」の塾長を高弟の武藤環山(一忠)に委(ゆだ)ね、兄韡村と同様、熊本で私塾を開いた。そして明治五(1872)年に上京、明治政府の「正院」(明治政府の最高機関)に出仕し、ついで「内閣修史局」に転属、この時期に『維新旧幕比較論』を著し、現在「岩波文庫」で出版されている。同十八(1885)年には「外務省記録局」に勤務、さらに多くの職責を歴任した後、菊池に帰り、家族や一族に囲まれながら、悠々自適な生活を送っている。

ついでながら、梅里の弟助之(徳太郎、1825~99)は、玉名郡伊倉村の名家木下家の婿養子に入り、幕末には藩の要請で西洋銃の製作に携わり、優良品を幕府に献上している。明治になると、第一回県会議員、第一回衆議院議員に当選している。また韡村の次男広次(ひろじ、1851~1910)は、京都帝国大学の初代総長になっている。

以後の文章は、下記のQRコードによって、読むこともできます。

お知らせ

堤 克彦先生 の歴史アラカルト「熊本・菊池の偉人賢人」は、今月号にて終了します。

なお、情報誌「みんなの図書館」には、4月号まで掲載します。

堤先生には、菊池の歴史について、次の機会に、また寄稿お願いいたします。ありがとうございました。




熊本・菊池の偉人賢人~木下梅里~

『菊池の偉人・賢人伝』⑭-木下梅里(小太郎 

はじめに


  • 木下家は、肥後藩士下河辺之敬の給地であった菊池郡今村の豪農の家柄であったが、正式な苗字は定かでなく、家に榎の大木があって、土地の人々が「木下屋敷」といっていたことから、通称「木下」姓であったと言われていた。文政九(1826)年、時習館居寮生であった韡村が二十二歳の時、学業優秀により、肥後藩主細川斉護から、「称氏」(木下姓)・「帯刀」を正式に許されている。

父衛門(伝左衛門)は菊池郡河原手永今村(現・菊池市今村)の豪農恵助と菊池名家平山喜右衛門の娘もや(茂弥)の長男として生まれた。その衛門は隈府町豪商宗善十郎の娘そめ(宗米)と結婚し、二人の間には、長男業広(宇太郎、後に真太郎、韡村)・二男丑三郎(熊太郎)・三男真弘(さねひろ、小太郎、梅里)・四男徳太郎(後に助之)と春(ハル)・寿与(寿茂)が生まれ、木下家の家業は、二男丑三郎が父の「地士」の士分格と一緒に継いだので、韡村も梅里も学業に専念することができた。

今回は木下韡村の18歳違いの弟梅里(真弘、通称小太郎)について見ていきたい。長兄韡村が余りにも有名であったために、弟梅里の存在感は薄く、残念ながら梅里の研究者はほとんどいないのが現状である。そこで木下梅里の事績や人となりについて、現在入手している永青文庫の「町在」や武藤一忠撰「梅里木下先生之碑」などを参考に、特に梅里の私塾「古耕精舎」に関しては、兄韡村の「古耕精舎記」や木下宇三郎撰「古耕舎遺趾」の碑銘などによって紹介してみたい。

 

一、木下梅里の学歴

木下梅里(1823~97)は、文政六(1823)年二月二十四日に出生、通称小太郎、後に真弘(さねひろ)と改め、号は梅里(以後梅里とす)であった。

 

1、梅里の学歴

兄韡村は、「古耕精舎記」の中で、「叔子(梅里)は幼にして読書を好む、之れを卑しめ、巻冊とともに、終日一室の中に在り、群児の墻下(しょうか、垣根)に戯れり、而(しか)るに顧みらざる也、稍(やや)長じ、意は実践に向かう、文詩を作す、軽俊(けいしゅん、内容は軽いが優れているさまか)を好まず、又樸厚(ぼくこう、素朴で情の厚いこと)・拙訥(せっとつ、拙く口下手なさま)、未だ嘗て其の志を言わず、而(しか)れど今此の如し、予の心は已に之れに服せり、而(しか)るに未だ以て應ずること有らず也」と記し、「古耕精舎記」を書く契機を紹介している。

「町在」(嘉永五〔1852〕年)により、具体的にみておきたい。梅里は天保元(1830)年正月、当時八歳にして渋江涒灘(忠多)の私塾「釣月亭」に入門、句読の指導を受け、同八(1837)年の十五歳まで八年間滞塾、翌九(1838)年十六歳の時、府學(時習館)教授近藤淡泉(英助)の私塾と官塾(教授期間1841~1852年)に、二十四歳の弘化三(1846)年まで九年間滞塾している。

その間に、梅里は藩校「時習館」の講堂に出席し、学問出精で「賞美之取計」(褒賞)を受けている。その学意は「専ら程朱の学を攻む、而れども墨守を肯(がえん)ぜず」、即ち朱子学を専ら学びながらも、一向に朱子学には拘泥することはなかったという。

弘化三(1846)年)の春、父衛門(伝左衛門)が病気になると、梅里は時習館教授近藤淡泉の官塾を退塾、時習館の講堂出席も辞して、菊池今村に馳せ帰り、病床の父に「湯薬を執る」など、懸命に看病した。韡村は、梅里の看病と心遣いについて話す父衛門の様子を「喜びは顔面に動けり」と表現している。


梅里は「弘化三(1846)年八月、菊池郡読書・習書倡方申し付け」られ、則ち「官命有りて、学を郷人に授け」ることになった。それを機に、病床の父衛門は、梅里に「田の数畝を割りて、之れを授け」、「又村の南地一区を付け、棲息(住宅の場)すべし」と、梅里に開塾の場所を提供し、弘化四(1847)年一月三十日に病没、享年六十五歳であった。梅里はその地に私塾を建て、兄韡村が「古耕精舎記」に記した経過の下、弘化四(1847)年に「古耕精舎」と名づけた。

 

二、「古耕精舎」の開塾

『菊池郡誌』や『熊本縣教育史』では、梅里の「古耕精舎」の開塾年は「弘化三(1846)年」となり、木下宇三郎撰「古耕舎遺趾」の銘には、「弘化四年丁未、木下梅里先生、村南ノ此地ヲ卜(ぼく)シ、住宅ノ傍ニ学舎ヲ建テ、古耕精舎ト名(なづ)ク」とあり、開塾年は「弘化四年」となっている。

梅里の住宅と併設の「古耕精舎」の場所は、「村の南地一区」にした。(写真1)韡村は「村南ノ此地」を「読書の所と為し、南北に其の戸あり、夏涼しく冬温かし、樹を以て繞(めぐ)らし、其の陽を厚くし、以て風の衡(まま、衝か、突き当たる)に備う」と記し、他に「築土」(築地塀)や「堀井」(堀井戸)が設けた。(写真1)

 

1、塾生の数

武藤一忠撰「梅里木下先生之碑」(原漢文)には、梅里の私塾「古耕精舎」の隆盛ぶりを「弘化三(1846)年八月、菊池郡の読書師と為り、家塾(後に「古耕精舎」と称す)を今村に開く、凡そ郡内外を論ぜず、従いて其の門に學ぶ者、幾十百人なり」と記している。 

「町在」(嘉永五〔1852〕年)では、弘化三(1846)年八月の「菊池郡読書・習書倡方」から嘉永元(1848)年九月の「文藝指南方ニ改め申し付け」、そして嘉永五(1852)年までの「古耕精舎」の盛況ぶりを、具体的につぎのように記す。

「門生、逐年相増し、當時(現在)滞塾生三拾三人、外生四拾六人、習書迄の者十五人、右の内、玉名郡より五人、合志郡より九人、山鹿郡より四人、且つ去年迄ニ引取り候諸生共ニは都合百三拾人餘」、さらに「格別出精の者は、追々実兄木下宇太郎(韡村)方へ入塾仕らせ」と記している。即ち現塾生(在塾生)は94人、退塾生(卒塾生)は130人を数え、学業優秀な塾生は、「韡村塾」(木下塾)への推薦入塾の道も開かれていた。

「町在」や『菊池郡誌』によって、その後の各時期の「古耕精舎」の塾生数を見ると、つぎのようになっている。

・嘉永五(1852)年、梅里(29歳)現塾生94人、退塾生合計130人余

・安政五(1858)年、梅里(36歳)現塾生64人、退塾生合計200人余 

・文久三(1863)年、梅里(41歳)現塾生73人、退塾生合計300人余

 ・万延元(1864)年、梅里(42歳)隆盛期

・明治元(1868)年、梅里(46歳)現塾生110人、明治三(1870)年廃止

 

2、梅里の指南(教導)

武藤一忠撰「梅里木下先生之碑」で、梅里の指南(教導)の様子を「夙に起き句読を授く、午時に至り聲は渋く、咽喉は吐血す、而して講演数次、曾て厭倦(えんけん、懈怠のさま)の態無し」、即ち早朝からの句読指導で、昼頃は声がかすれ、喉から吐血、それでも午後の講義は続けたと記す。

「町在」(嘉永五〔1852〕年・安政五〔1858〕年・文久三〔1863〕年)の「御内意之覚」・「覚」により、梅里の私塾「古耕精舎」での教導法とその特徴を具体的に拾っておきたい。

・私塾での指南-昼夜の会読、読書・習書および詩文の指導

・稽古場の出席-定日(月三度)の講釈・詩文会などで懇切な誘掖、文事倡方

・教導の仕方-「心を用い、教導筋手厚く出精」、「真実ニ教育仕り」、「諸生の尊信も弥増し、其の身の規模も相立て、教導筋益(ますま)す行き届き」、「学業も益す相進み」、在中では「抜群の人物」

・教導内容-孝悌・忠信の教えは「身を以て先立ち教育いたし」、「篤実・温厚」ながら、厳重な督責

・門人の在地役人採用-「諸生の内ニは屹度御用ニ相立ち候者も出来仕るべき」→「弐百人餘大勢の門人内ニは、追々役付き等申し付け候人柄も出来」、「進歩の面々も出来いたし候。間ニは相応の在御役に召し仕われ候人物もこれ有り」

・郡中の美事-菊池は「以前より人材傑出の土地柄」で、「風俗も自然と淳厚ニ帰し申すべく、旁(かたがた)所柄の為合(ためになるよいこと)ニ相成り」

・年々隆盛-「門生幼少の者迄も相懐キ、年増繁昌仕り」、「惣躰在御家人などの子弟差し付き(目の前に差し出す)」(在御家人子弟の入塾が多い)

・塾経営支援-「御府中滞学などの父兄々々心遣いもこれ有り」(城下塾生の親たちから支援・協力)

・塾費節約-「雑費など心底に任せず押し移りの者も少なからず候処、第一節倹を示し、成る丈諸雑費を省キ候存念」

・塾普請費用の自弁-「家塾は勿論自勘(自弁)ニ而、弐間梁ニ六間・二階附ニ建て方いたし、其の後門生相増し、間狭ニ相成り候付、猶弐間ニ三間建て継ぎをもいたし」

・塾用薪炊収集-「毎月朔望(一日・十五日)は休日ニ而、近邊支(さしつか)え無き山林の枯れ枝・落葉など請持の者共ニ申し談じ、門生引き連れ、其の身ニも負い担ぎ候て、塾用の薪炊を助け」

・遠方塾生の援助-「其の外遠方の塾生ニは粮物(糧食)・塩噌(えんそ、塩と味噌)などの儀迄も世話いたし遣わし候付き、弥(いよいよ)以て他御郡ニ懸け、子弟勤学の便利ニ相成り申し候」

・他郡から大勢の門生-「学名(学問と「古耕精舎」の名)他邦ニ相聞え、旅生段々罷り越し、入塾の者少なからず」、「他御郡をも便利(他郡のために役立つ)ニ相成り、大勢の門生も出来」

 

3、兄韡村の「古耕精舎」の命名

兄韡村は「古耕精舎記」(原漢文)の中で、弟梅里の学問的姿勢と「古耕精舎」命名の経緯について詳述している。その部分を引用しながら、少しく解説を付してみたい。

①  梅里の学問的姿勢と学意

 梅里は「士毅」(しき、ひとたび学問をもって身を立てると決意し、何ものにも邪魔されないこと)し、七年間の游学(時習館教授近藤淡泉の官塾在塾時代)後の「一日」(韡村が父の看病に江戸から帰郷した弘化三年十一月のある日)、「歛容」(斂容、れんよう、態度を引きしめて、居住いをただす)して、兄韡村につぎのような質問をした。

梅里は「古の学は耕し且つ養う、其の道は何如(いかん)」、即ち「古の学問は『耕す』かつ『養う』というが、その『道理』は一体どのようなものでしょうか」と尋ねたところ、韡村は「予は未だ以て應ずるに有るにあらず」(「まだ十分梅里の質問に答えられない」)としか答えられなかった。

梅里は「耕す」とは自らが「有徳者」に近づけるように修養する「為己学」(己の為にする学問、「修己学」)を意味し、「養う」とは「為己学」で身に着けた「有徳者」となる学問によって、他の人々に対しても「人倫」を教導・共有する「治人」と解していた。即ち「修己治人」であり、「學びて経(経書・四書五経)に通じ、将に以て人倫(人としての道理)を明らかにする」ことであった。

梅里は、具体的に「人人は父子相親しみ、兄弟は輯(つど)い睦み、室家(家庭)・郷黨(きょうとう、同郷の人々)は相安んじ相保てば、上下(君臣)の際(交際)は、其の分を乱すこと無し」といった。

また『論語』や『春秋』などに登場する「麟」と「凰」(優れた人物の意)を踏まえ、弟梅里の片田舎今村での「古耕の学」を「麟は必ず郊に游び、鳳は必ず岡に鳴く」(郊・岡は中心から離れた場所の意)と記すなど、その梅里の「家族論」や「君臣論」は兄韡村とまったく同じであった。

さらに梅里は、「有徳者」は自らの「立ち位置」と「孝悌」・「忠信」をわきまえ、殊に「聖人の斯民(親愛なる民)に求める所以(理由)は、過ぎざること是の如し」、即ち聖人(孔子)が人民の我々に要求するのは、過不足のない「中庸」であると思っていた。梅里は、そのために「古は大小学(大学・小学)之れを設(そな)え、其の法備(学習への備え)は具さなり」(古の学問では「大学」・「小学」を設け、具体的な学び方も準備していた)と言っていた。

また梅里は、「畎畝(けんぽ、みぞとうね、田舎)の間と雖も、耒耜(らいし、鋤を取って耕す、百姓)の人は、学に於いて自得(自ら悟る・会得)せざるはなし」(田舎に住む百姓は学問をして、自ら修得している)ことは確かであるが、しかし「君子は学びて、人を愛するを知り、小人は学びて、人に事(つか)えるを知る、葢(まま、蓋、けだし)是の如きのみ」、即ち「君子(有徳者)は学問によって『民を愛する』ことの大切さを知るが、小人(無徳者)は学問によって『人に事(つか)える』ことを知るだけ」であると言っている。

そして「我が兄弟は一に則ち之れを懼れる、情は方(まさ)に身を切る」、即ち「自分たち兄弟が一番懼れているのは、小人が『人に事(つか)える』だけを知ることであり、学問がこの段階にとどまっていることを残念がり、「こんな思いをしなければならないのが非常に辛い」と言い、学問の本当の役割について言及している。

 

②  「古耕精舎」命名の経緯

 以上のような現状にあって、一体どうすればよいのか、梅里は、その後世子慶前の随行で江戸にいた兄韡村に、つぎのような書翰を送っていた。「私塾は、弘化四(1847)年一月に没した父伝左衛門の遺言通りに開塾したが、学者としての兄の意見を聞きたい」と。それに対して、韡村からは「予は因りて其の意を述べ、之れを名づけて古耕(古耕精舎)と曰う」と返書を送った。

 そして韡村は「叔子(梅里)に従いて游(学問)する者は耕中の人なり、其の講を與(与)える所は人倫の経(経書・道筋)なり」、即ち「弟梅里の私塾『古耕精舎』で学ぶ門弟はすべて『耕中の人』である」といい、「其の講義の中味は人倫(人としての道理)の経(経書)であり、同時にその経(人倫のすじ道)を教えている」と言っている。

 さらに「叔子(弟梅里)を推す(人に勧める)の所以は闔(なんぞ)自ら成し、則ち以て人と成すべからざるなり」(どうして自分で成就した学問で、他人の為にその学問を駆使して成就することができないことがあろうか、いや絶対に成就する)、即ち「弟梅里を推薦する理由は、梅里自らが成就した学問を以て、他の門弟たちの「人倫」教育を成就させたいとの強い熱意を感じるからだ」と言わんばかりである。

そして「郷(今村)は小国郷の推なかれ也、童(子どもら)は幼長老童の推なかれ也」、即ち『古耕精舎』を推薦する理由は、今村が単なる『小国の郷』の私塾ではないからである。また『古耕精舎』で学ぶ『童』は、ただの『幼長老童』(単に「長幼の序」の言葉としての幼童)ではなく、非常に優れた子供たちであると記していた。

 さらに「吾君や吾が廟堂(幕府)の上に相憂える所は、千百萬に之れを分てり」(我が藩主や幕府に関する心配事は実に数多いが、数多く幾つにも分散できる)、しかし「其の一在一郷の人は、一童の身も、人執れの道藝(道と芸)に有れど、其の蒙(啓蒙)を養い其の性を涵(涵養)するは、千百萬に之れを積めり」(今村に住む一在郷の人は、一幼児であっても、誰もが『道芸』(道と芸)即ち学問を志向する意志があれば、彼らを啓蒙してその性質を徐々に養育し、大きく積み上げていくことができる)と言っている。

以上のようであれば、「吾君や吾の相憂い無き也」(藩主の憂いも自分の憂いも無くなる)といい、最後に「身は廬井(ろせい、貧しい田舎の家)に在り、而して心は六経(易経・書経・詩経・春秋・礼〔らい〕・楽経の総称)に游ぶ、人君を助け、教化を明らかにす、古耕学の道は然る為り、是の為に記す」即ち「身は片田舎に在りながら、心は『六経』(易経・書経・詩経・春秋・礼〔らい〕・楽経の総称)を学ぶ。これは片や藩主を助けることになり、片や民の『人倫』を教化することになる。これこそが『古耕学の道』である。このために『古耕精舎記』を記した)と締め括っている。

 

③  木下宇三郎撰の「古耕舎遺趾」碑銘

この韡村の「古耕精舎記」の主張は、つぎの木下宇三郎撰の「古耕舎遺趾」(写真1)の碑銘の中に反映されている。

「古耕舎遺趾」碑銘

弘化四年丁未木下梅里先生、村南ノ此地ヲ卜(ぼく)シ、住宅ノ傍ニ学舎ヲ建テ、古耕精舎ト名(なづ)ク。来学スルモノ数十百人。明治元年先生府学訓導トナリ、熊本ニ移居セラルヽヤ、高弟武藤環山(一忠)先生ニ精舎ヲ委(ゆだ)ネラル。明治五年学制改革ニヨリ小学校舎トナル。同十年西南ノ役、庠序(しょうじょ、中国古代の学校のこと、単なる学校の意)曠廃止ス。環山先生村治ノ傍ラ、勧学ヲ教授セラル。他郷ヨリ来学スルモノ数十人。明治十三年菊池郡立中学校創立ニ付、子弟転出シ、且先生ノ新宅成リテ、転住セラルヽヤ、精舎及住宅取毀タレ、遂ニ今日ノ田圃トナレリ。

世ニ称ス、今村ハ文教村ナリト。想フニ犀潭(韡村)・梅里・環山、諸先生ノ後嗣俊秀、各々国家ノ重位ニ匪躬(ひきゅう、自分のためではない)セラルヽモノ多キハ、蓋シ偶然ニアラサルナリ。後ノ此遺趾ヲ訪フ者、先躅(せんちょく、先人の遺跡)ヲ追フテ、後昆(こうこん、子孫の仲間)ニ継クヘキモノ、豈独リ田園ノミナランヤ。

頃ロ環山先生ノ長孫義雄君、先考(亡父)虎太君ノ遺志ヲ紹(うけつ)キ、碑ヲ建テントシ、余ニ其記ヲ作ラシム。余ハ環山先生ノ教ヲ受クルモノ、敢テ辞セス、之ヲ記ス。

昭和十三(1938)年七月   木下宇三郎撰     武藤義雄書

 

三、木下梅里の「欧州兵式」訓練

「梅里木下先生之碑」には、梅里の事歴の中で、「當(まさ)に是の時邊陲(へんすい、辺境)は不穏なり、民心の激昂す、先生は乃ち海防私議を策(めぐら)す、門生数名を長崎に派遣し、欧州の兵式を伝えしむ、帰るに及んで自ら銃列隊伍を操る、闔郡(こうぐん、郡全体)翕然(きゅうぜん、多くの者が一つになるさま)、軍隊を編み千八百餘人に至る、専ら子弟を鼓舞・作興を以て己の任と為す」と記されていた。

嘉永六(1853)年六月、ペリー来航後、菊池郡でも世情が不穏になり、郡民の心情は非常に高揚していた。梅里は『海防私議』を策し、門弟から数名を選び、長崎に「欧州兵式」の伝習のために派遣した。門弟らが長崎から帰郷すると、梅里は直ちにその「欧州兵式」を手本に「銃列隊伍」を組織、その指揮にあたっている。その結果、菊池郡全体が一つに1800余人の軍隊を編成し、その門弟からなる農兵隊を「鼓舞」・「作興」することを自らの任務とした。

兄韡村は、本来「清議」(政治批判)に於ける「分流」(対立)は、兄弟の相鬩(せめ、相争うこと)ぎ合い、「元氣」(活動のみなもととなる気力)を「索」(さく、バラバラになる)してしまうと考えていた。韡村は、弟梅里の『海防私議』の方策や「欧州兵式」による「操銃列隊伍」の訓練指揮、1800余人の軍隊組織などの積極的な行動をどのように観ていたのか気になる。

門弟竹添井々(進一郎)の「木下先生行状」や安井衡(息軒)撰「木下子勤墓碑銘」によると、韡村は「西人の学(洋学)が興るに及ぶと、門人の中には蟹字(横文字、英語)を読む者や或は其の書を講ずる者が出て、勉めて以て大勢(世界の趨勢)を通観し、兵略を講究」する者がいた。また「洋学は汲々(一つの事にとらわれること)、以て甄別(けんべつ、賢否をはっきり見分ける)する学問である」との見解を持っていた。しかし「その教旨は民害を遏絶(あつぜつ、押し止める)する」ことにあり、それは「儒者の任」でもあると、「儒学」と「洋学」の共通性を強調していた。

                                                        写真2 『旧幕維新比較論』

四、木下梅里の事歴

 木下梅里の事歴について、前掲の「町在」や「梅里木下先生之碑(武藤一忠)」の他、『肥後先哲偉蹟』(後編)および木下真弘著『維新旧幕比較論』(宮地正人校注 岩波文庫 1993年)などによってまとめてみた。若干の違いはあるが、その事歴の概要はつぎの通りである。なお「 」(隷書部分)は「梅里木下先生之碑(武藤一忠)」からの引用である。

 

・弘化三(1846)年八月(24歳)、菊池郡読書・習書倡方任命後、同時に菊池郡今村に私塾開塾

・弘化四(1847)年(25歳)、兄韡村の提言を受け、私塾を新たに「古耕精舎」と称す

・嘉永元(1848)年九月(26歳)、菊池郡文芸指南方任命

・嘉永五(1852)年九月(30歳)、郡代直触

・嘉永六(1853)年六月(31歳)、ペリー来航後、「海防私議」を策し、門弟の長崎派遣、欧州兵式伝習、「操銃列隊伍」の訓練指揮、軍隊1800余人を組織

・安政五(1858)年十二月(36歳)、一領一疋

・文久三(1863)年八月(41歳)、一領一疋、毎年米八俵拝領

・明治元(1868)年四月(46歳)、御留守居御中小姓、十石三人扶持、十二月、府學(時習館)訓導に任命、武藤一忠に「古耕精舎」委託、熊本で私塾開塾(入塾生多数)

・明治三(1870)年七月(48歳)、「肥後の維新」(藩政改革)で「時習館」廃止、御留守居御中小姓

・明治四(1871)年七月(49歳)、「廃藩置県」を機に一家上京

・明治五(1872)年五月(50歳)、教部省十等(判任官)出仕、六月、教部中録十等(省改革で免職)

・明治六(1873)年五月(51歳)、太政官正院十二等出仕、十二月、十一等出仕

・明治七(1874)年七月(52歳)、地方官会議御用掛(台湾出兵で会議延期)、十二月、十等出仕

・明治八(1875)年四月(53歳)、中主記(十等)、六月、地方官会議書記生、七月、内務権大属(九等)、十月、同省図書寮権大属(九等)

・明治九(1876)年四月(54歳)、内務権大録(九等)、五月、太政官正院権大主記(九等)、九月、『新旧比較表』(編年)執筆

・明治十(1877)年二月(55歳)、『新旧比較表』(族別)執筆、京都行在所太政官出頭・滞在、「土方内大史となり、三條・岩倉両公の意を傳ゆ、條(三條実美)に民間の苦楽を陳べしむ、而して以


て事の機密に属す、人に示すを肯(がえん)ぜず」、五月、書記官口頭に「御用済・九州巡回」の依命、九月、『新旧比較表』(社会)脱稿(写真2)

・明治十二(1879)年五月(57歳)、太政官修史局四等掌記(十一等)第三局甲科に転任、『復古記』・『明治史要』・『征西始末』の編集

・明治十五(1882)年十一月(60歳)、竹添進一郎(朝鮮弁理公使)に外務一等属(朝鮮日本公使館第三位官・在京城)

・明治十七(1884)年十二月(62歳)、「甲申事変」に巻き込まる、「朝鮮三年(明治15~17年)に役す」

・明治十八(1885)年三月(63歳)、帰国後、外務省記録局勤務、十二月、非職

・明治十九(1886)年(64歳)、「帰り病を得、専ら事は鉛槧(えんざん、執筆の仕事)たり、『豊太閤征外新史』五冊(漢文体)の如く、厥(そ)の既成を剞(き、きざむ)す、蓋し人心を振作し、以て國家の元氣を培養するは、先生畢生の志也」(写真3、この時期のものであろう)

・明治三十(1897)年十二月二十一日(75歳)、東京で病死、東京府巣鴨の染井墓地に葬る

 

五、「梅里木下先生之碑」の建立

 在郷の門生たちが相談して、明治二十六・七年頃に同窓会を開いた。出席できなかった梅里は、つぎのような書翰を送っている。

「諸子に別れてより三十餘年、天涯(異郷)客と為る、一事として世に益すること無し、齢は七十を踰(こ)え、加えるに老病を以てす、夜に故山を夢見ざること無し、豈に図りて諸子の旧誼を忘れず、予の為に宴を設く、何ぞ感謝に堪えず、年追うて此の会を請い、邦家の為に修学勤業を益し、以て菊池の光栄を顕わす也」

武藤環山(一忠)は、建碑の思いを「嗚呼先生の齢の高き自ら此の如し、而して勧奨して備えに至る、先生の風(風貌)は、馬鞍(鞍岳)と箭筈(やはず、矢筈)の両山の高さ、兼ぬるに菊池・迫間の二水の長さ、今や天涯の地角(ちかく、遠く隔たった東京)、相距ること三百里なり、屡ば先生に声する能わず、忻慕(欣慕、敬い歓び慕うこと)の餘り、井々竹添先生に請い、篆額(碑などの上部に篆文で書いた題字)を書し、茲に碑を建て、以て紀念と為す」と語っている。

 

銘に曰く「教えて倦(う)まず、必ず両端(初めと終り)を叩く、述べて作らず(孔子と同様の教育方法であった)、屡ば治安を策し、隊伍は維(こ)れを励し、闔郷(こうごう、菊池郡全体)団を成す、維れ(これ、繋ぐのは)文、維れ武なり、徳の馨(かおり)は蘭(蘭馨〔らんけい〕・蘭薫〔らんくん〕、蘭のような薫り)の如し、菊水(菊池川)の上、菊城(守山城)の巒(らん、峰)、巌々(厳か)たる維れ石(顕彰碑)、千秋(これからずっと)仰ぎ観らん」(写真4)



おわりに

木下梅里(1823~97)は「在郷二十餘年一日の如し」、弘化四(1847)年の二十五歳から明治元(1868)年の四十六歳までの22年間、「古耕精舎」の塾主として菊池の今村を一度も離れることなく、数多の門弟を教導した。「梅里木下先生之碑」の囲い垣には、木下宇三郎・同居中・同次郎、武藤虎太・同一忠、有働良夫、服部倫太郎、渋江公木、今村団蔵など163人の寄付者名が刻まれている。

  終り


堤先生、長い間寄稿して頂き、ありがとうございました。

また、次の機会にお願いします。(友の会事務局)

 

 

 

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