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[2023年11月号] 歴史アラカルト「菊池の偉人・賢人伝」

とっておきの熊本・菊池の歴史アラカルト(21)           2023年11月号

                         

『菊池の偉人・賢人伝』⑫-渋江公寧

堤 克彦(熊本郷土史譚研究所所長・文学博士)

写真 龍伏渋江(公寧)先生之墓


渋江公寧(1858~1896、子静・龍伏。龍伏は迫間川の龍伏渕による号)は晩香の長子、漢詩に堪能で、最も影響を受けたのが頼山陽著『日本外史』と『日本政記』であったという。

山口泰平著『肥後渋江氏伝家の文教』(2008年 菊池市教育委員会刊行)によれば、公寧は、最初「電信寮」を志望したが、試験科目に「洋学」があったこと、その上父晩香の説得もあって断念した。

そして明治八(1875)年「熊本師範学校」(明治七年五月創立)に入学、翌九年には「第十三番中学区派出三等教員」の資格を修得して、隈府町菊池小学校に赴任した。また「公立菊池中学校」(変則中学校)の創立にも関わっている。

一方私塾「遜志堂」の経営にも関わり、父晩香の「大先生」に対し、「小先生」と言われた。その上菊池神社の神官の父を補佐、祠官も兼務した。また「自由民権運動」下では、保守的な「紫溟会」の一員として、政治活動にも非常に熱心であった。

公寧は、明治二十一(1888)年の県会議員補欠選挙で、「紫溟会」から立候補して当選、同二十五年に満期退任した。その後、明治二十七(1894)年の第四回衆議院議員総選挙では、第三区から「国民協会」(「国権党」)から立候補し、紫藤寛治と共に当選をはたした。

公寧最初の第七臨時帝国議会(「挙国一致国会」)は、「日清戦争」の臨時軍事予算が満場一致で通過、同二十九(1896)年の第九帝国議会まで政治活動に邁進した。しかし糖尿病の持病の上、肺患を併発して病状が悪化し、とうとう議員在任中に菊池に帰省、家族に看取られながら、最期に「不孝」の一言を残し、明治二十九(1896)年十一月に死去した。

公寧の最後の仕事は、第九帝国議会で重要法案がほぼ通過した頃、本国会には大阪府・神奈川県・熊本県など二十七府県の「郡廃置法案」が提出・審議され、明治二十九(1896)年四月一日から施行される予定であった。

熊本県に関しては、「熊本縣肥後國飽田郡及託麻郡を廃し、其の区域を以て飽託郡を置く、肥後國山鹿郡及山本郡を廃し、其の区域を以て鹿本郡を置く、肥後國菊池郡及合志郡を廃し、其の区域を以て菊志郡を置く」議案であった。衆議院の特別委員会に付託された「郡廃置法案」は審議の末、ほとんど政府の原案通りに決まっていった。

ところが、「菊志郡」の議案では、同じ第三区選出の紫藤寛治が両郡民の感情融和の必要上「菊志郡」案を支持したのに対し、渋江公寧は「該地方は菊池氏歴代忠君の偉業を立てた根拠地」で、「この名称を永久に保存するのは、風教上極めて必要」であると真っ向から反対し、旧名「菊池郡」の残存を主張した。

委員会では、紫藤寛治と渋江公寧の大議論が展開された。その結果、公寧の修正案通りに「菊池郡」に決定した。さらに貴族院でも、この「菊池郡名」が大議論の後に承認された。これが「菊池郡」が残り、「合志郡」が消えた理由と経緯であった。

なお詳しくは、菊池市教育委員会刊の山口泰平著『肥後渋江氏伝家の文教』(2008年)の私が担当した「解題」を参照されたい。



-渋江塾の終焉・政治家渋江公寧-


文責 堤 克 彦(文学博士)


はじめに

渋江晩香には長子公寧・次子公雄・三子三一(入江氏を継ぐ、陸軍少将)がいたが、末子三一の塾名「遜志堂」由来の問いに、晩香は「苟くも朱子学を学んだものは、謙遜・礼譲の徳を体得して居らねばならぬ。それでこそ人間の奥ゆかしさがある。漢書が読めるなどゝ言って、生意気になっては相成らぬ。それが我が家に伝へて来た曽祖紫陽先生以来の精神である」と答えたという。

しかし、これまでの江戸期の「菊池文教」の主目的は、「菊池古学」(後に「朱子学」に代わる)と「菊池氏顕彰」にあったが、渋江晩香が菊池神社の神官となり、長子公寧が政治家になる過程で、この二つの目的のうち、前者より後者に重点が置かれるようになった。

即ち純粋な学問的要素が希薄になるばかりか、特に公寧では菊池氏顕彰それ自体が「政治的イデオロギー」の色彩を濃厚になっていった。その過程を見ていきたい。


一、渋江公寧(子静・龍伏、1858~1896)

1、「熊本師範学校」前後

 晩香の長子公寧(龍伏、迫間川の龍伏渕よりの命名)は漢詩に堪能であるばかりでなく、頼山陽著『日本外史』と『日本政記』に、幕末期の青少年同様に多大な影響を受けていた。その少年公寧は、明治七(1874)年最初は「電信寮」入学を志望していたが、「洋学」が必須とあって断念する程、「洋学」嫌いは徹底していた。

そんな公寧は、明治八(1875)年五月に父晩香の勧めがあって、「熊本師範学校」(明治七年五月創立)に入学した。その間の勉学や試験の様子は、山口泰平著『肥後・渋江氏伝家の文教』所収の『公寧日記』によって知ることができる。

公寧は、一年後の翌九(1876)年四月には「第十三番中学区派出三等教員」の資格を修得して卒業、同五月より隈府町菊池小学校に赴任した。

公寧は「遜志堂」の小先生や菊池神社の祠官を兼務するなど、多事多忙の毎日が始まった。その他にも師範学校出身であったこともあって、各区内の小学校の進級試験や授賞式に多く立ち会うなどしていたが、明治十一(1878)年五月に、契約の三年満期の辞令を受け、小学校教員を辞職した。


・「守山塾教則」

 公寧は、小学校教員を辞職した明治十一(1878)年五月から同十三(1880)年五月までの2年間、「遜志堂」の経営は言うまでもなく、自己修養や菊池氏顕彰に邁進した。また明治十二(1879)年十二月作成の「守山塾教則」によると、教科書は歴史・習字・算術などを使用し、日課には論語会・小学会・左伝会・孟子会・外史会などを組み入れ、教科書は全巻の首尾から大尾までを使用するほどの徹底ぶりであった。また一日10~12時間の日課(但し明治十八〔1885〕年の「私立学校設置伺」の申請への県の許可条件は一日6時間以内)で、毎月の小試験と年二回の大試験が実施していた。


・菊池氏顕彰の継承 

公寧は自己修養のため、漢書籍の読書の他に、国学に興味を持ち、各地で開催される歌会には欠かさず出席した。また高祖紫陽以来の菊池氏顕彰を積極的に継承し、水足博泉が「菊池古城記」の中で、菊池武時から武朝に至る南朝方としての武功を「然ると雖も、是れ特に介冑武弁の事、君子之れを賤しむ」との文言を批難、武房・武重・武士・武光・武政・武朝などの「小伝」も執筆、さらに当時流行していた幻燈映画のために、菊池歴代の原画を依頼している。


・「同心学舎」の視察と「三綱領」類似の根拠

父晩香は「菊池神社」の祠官に昇格した明治六(1873)年に「遜志堂」を開塾した。明治十八(1885)年八月二十日付の「私立学校設置伺」によれば、その教育方針は漢書中心の「漢学による日本主義教育」であったた。

修身には「論語」・「孟子」・「小学」・「書経」(山口泰平は元田永孚の「幼学綱要」も課したという)を使用し、その中でも「論語」は別格であった。また歴史では「日本外史」・「日本政記」・「十八史略」・「左伝」などを重視していた。

佐々友房は、明治十二(1879)年十二月、友成正らの協力の下、「同心学舎」(済々黌中学校の前身)を設立、翌十三年二月に「新設同心舎の経営に資せん」ために、「遜志堂」の教育視察をしている。

明治十五(1882)年二月に私立中学「済々黌」を創設した時の三綱領「一、廉恥ヲ重ジ元気ヲ振フ 一、倫理ヲ正シ大義ヲ明ニス 一、知識ヲ磨キ文明ヲ進ム」は、晩香と公寧が明治十八(1885)年に従来の「遜志堂」を基に、新たに私立学校「遜志堂」を創設した際の三綱領「一、忠信礼譲ヲ本トシ廉恥ヲ重ンズル事 一、倫理ヲ正シ忠孝ヲ励ム事 一、知識ヲ拡メ事業ヲ主トスル事」に類似している。その理由は佐々友房が「遜志堂」の教育視察の際に「遜志堂」の三綱領を知り参考にしたのかもしれない。

その後の「遜志堂」の教育方針は、「忠信・礼譲・忠孝・廉恥を以て塾教育の根本綱領とする日本主義教育」であった。晩香はこの「日本主義教育」が明治二十三(1890)年十月三十日公布の「教育に関する勅語」(教育勅語)と合致するとして大歓迎している。そして「学海波瀾地を捲きて狂う 風潮の偏り恐ろしく綱常を破る 幸い詔勅に逢い天下従う 万古仰ぎ見る日月の光」(原漢詩)と詠じていた。公寧の「洋学」嫌いも、また政治家の道を歩み出した段階での公寧の心情も同じであったと思われる。


2、「公立菊池中学校」の開・閉校

 当時熊本県内には県立熊本中学校、公立では人吉・天草・玉名の各中学校だけであった。そこで菊池郡町村連合会は、旧藩時代の文教の地の菊池・山鹿の城北に新文化の扶植普及のために、連合会の議決を経て、明治十三(1880)年五月、「現今隈府小学校所在地」(『菊池郡誌』)に、「公立菊池中学校」(変則中学校)が創立している。

「公立菊池中学校」では、漢学中心から新時代の要求を充当するために、同十四(1881)年十一月から英語(スペルリング・ナショナル)を教えた。生徒たちの内訳は、小学校卒、学資や家庭事情で進学できなかった者、また農工商の余暇を生かしたい者などの「本科・予科を通じて百余名」で、「天草・玉名・山鹿・合志等の他郡生も十四・五名」(『菊池郡誌』)も含まれていた。

当時二十三歳の公寧は、公立菊池中学校の開校時から同十六(1883)年三月まで、歴史(『日本外史』)・理学(物理全志)の授業を担当し、また学校経営にも深く関わったが、菊池郡は公立中学校の維持にかかる経費を、一郡だけでの負担維持ができないと削減に次ぐ削減、また校長の辞職もあり、公寧の努力もむなしく、同十五(1882)年十二月に閉鎖されてしまった。


・「学務委員」

 明治十六(1883)年十月から同十八(1885)年までの間、公寧は菊池郡第二学区学務委員に、武藤一忠は第一学区学務委員に任命された。「学務委員」は明治十二年の『教育令』によって設置された役職であった。

山口によれば、明治十四(1881)年六月の「学務委員心得」の改定により、「視学」と同じ実権を有する職と見なされ、『公寧日記』には校務係の選出、管内小学校の試験監督などの大きな仕事に携わったという。

また上羽勝衛郡長のもと、明治十三(1880)年九月に公布された「郡区教育会」の規則に基づき、同十七(1884)年六月に「鹿本菊志四郡私立教育会」が設立、学事諮問の一機関として県教育会を補完したが、明治十八(1885)年八月の「教育令」の改正で「学務委員」制度は廃止された。

この前後に公寧が関係した事柄には、明治十四(1881)年四月の孔子・子路像の返還を要求した「聖像問題」(同十七年七月、北岡邸保存で決着)、同十六(1883)年八月の済々黌の佐々友房・津田静一の提唱による「私学聯合学校」の提携(各校互換性・連合大試験の実施)などがある。

明治二十(1887)年四月には第一回「江門同朋会」が開催、当時800人余に達していた「遜志堂」の塾生による塾主晩香・公寧を囲む同窓会であった。その後は、県内の他の私立学校は紆余曲折しながら衰退しまった。

しかしひとり「遜志堂」だけは入塾者を増やし、同二十五(1892)年には「遜志堂」拡張の議論が新聞記事に出ている。また翌二十六年には、公寧は水足博泉の「菊池古城記」にクレーム、その理由は菊池武時から武朝に至る南朝方としての武功に関して、「然ると雖も、是れ特に介冑武弁(甲冑武人)の事、君子之れを賤しむ」との文言に激怒していた。



二、政治家渋江公寧の誕生

江戸期の「菊池氏顕彰」は、菊池氏家臣の末裔らによる非常に素朴な祖先崇拝によるもので、主君菊池氏の顕彰に端を発していた。前述したように、歴代の渋江塾主の主目的は、高祖父渋江紫陽の時から「菊池古学」と「菊池氏顕彰」の二本立てであった。

しかし後者は江戸後期・幕末期には「尊王論」や「後期水戸学」の影響を受け、維新期の「大教宣布」(明治新政府が祭政一致・国教強化の一環として展開した国民教化政策で、神道精神の高揚を目的とした)を経る中で、菊池氏の「南朝一辺倒」の史実は、歴代渋江塾主によって「南朝正統論」に変えられ、やがて「菊池南朝史観」の基盤として一般化されていった。

従来の「菊池氏顕彰運動」は、明治三(1870)年菊池武時・武重・武光を祭神とした「菊池神社」の創建によって達成された形になり、まだ政治的に利用されるまでには至っていない。しかしその後、渋江晩香が「菊池神社」の神職となり、その長子公寧が「国権党」系の政治家になっていく過程で、歴代渋江塾主が主唱した「菊池南朝史観」は「政治イデオロギー」化していった。その経緯を公寧の動向を通して見ていくことにする。


1、渋江公寧の政治参加の契機

・「西南戦争」を静観

明治十(1877)年の「西南戦争」では、この菊池地方でも、特に隈府町は薩摩軍と政府軍の真正面から対峙する戦場となった。薩軍は立石の西覚寺を屯所とし、また薩軍側の「熊本協同隊」は守山城に籠って、山鹿方面からの進撃してきた政府軍と戦った。その当時の隈府町の状況を、宮崎滔天は『熊本評論』連載の「熊本協同隊」(六)の中で、つぎのように書いている。


▲協同隊の戦士山鹿より転じて菊池に至りしは、恰も桜花爛漫の好時なりき。その菊池氏の城跡に陣取るや、大に酒宴を設けて乱舞痛飲せり。高田(高田露)起って歌ふて曰く。

快歌豪飲酔将狂 剣舞影寒二月霜 落日城頭花忽散 満身白雪鉄花香(快歌・豪飲、酔ふて将に狂うべし 剣舞の影寒し二月の霜 落日は城頭の花忽ち散る 満身の白雪鉄花の香り)

▲當時熊本の市民、難を此處に逃れ来るもの多く、その内娼妓の一隊も亦来りて、寺院に批(まま、避)難せり。


菊池神社のある城山は、「熊本協同隊」に「陣取」られ、大酒宴と乱舞・痛飲の場となっていた。そこに政府軍が袈裟尾の高台から、城山目がけて砲撃した。渋江晩香は夜陰にまぎれ、神社の神体を背負って、河原村(現・菊池市)の「四宮神社」に避難し、紫雲山広現寺の住職も、河原村に仮寺院を設け、本尊を移したという。

この状況を直接見聞した渋江公寧であったが、『公寧日記』には明治十(1877)年の「西南戦争」に関する記事は少なく、他の地元民と同様、政治的動向にはほとんど無関心であった。ただ「遜志堂」座談会の参加者の話では、父晩香の御神体避難の他に、公寧は父同様に薩軍優勢の状況下で動揺する塾生に「去就を誤るな」「早まってはいかぬ、大義を知れ」と、薩軍に参加しようとする塾生を制止したという。


・「自由民権運動」との出会い 

ところが、「遜志堂」の門人佐藤惟一が高知県土佐の警官となり、「西南戦争」の翌十一(1878)年九月、病気で帰省した時、公寧は佐藤から土佐の「自由民権運動」の報告を受け、またスペンサー著『権理提綱』を借覧している。これが公寧にとって、最初の「自由民権運動」とその思想の出会いで、まさに「政治的開眼」となった。

明治十四(1881)・五年の「自由民権運動」の胎動期になると、国民ばかりでなく、当時中学校教員であった公寧も、政治活動への関心が非常に高くなり、公務の余暇を見つけては参加し始めた。特に同十五(1882)年十月には、京都で開催された「全国主権在君主義者大懇親会」(「西京立憲帝政党大懇親会」)には代表として参加している。

山口泰平は『肥後渋江伝家の文教』の中で、学校教員の政治運動への参加について、「普通ありふれた事実で、世間何人も之を咎むるものもなく、又その筋よりも別に之を戒飭(かいちょく、戒め注意すること)しなかったが、後年政争愈々激烈となるに及び、教員の政治運動は教育に及ぼす弊害少なからずといふことで、厳に之を禁ずるに至った」と記し、さらに同二十三(1890)年七月の「集会及結社法」の公布に繋がったことに言及している。

また同著には全国的な自由民権運動の経緯や政党結成の経過ばかりでなく、熊本県に関しては、幕末・維新期の学校党・実学党・勤王党の鼎立、「相愛社」などの民権党の成立、「西南戦争」での「熊本隊」と「熊本協同隊」の分裂参加などについても詳述している。

さらに県警部長徳久恒範らの呼びかけによる「忘吾会」の成立、明治十四(1881)年九月一日、木村弦雄・佐々友房らが、安場保和・井上毅ら中央官僚の協力を得て、「大中至正の道」を唱道し、「立憲主権在君主義」の「熊本紫溟会」を結成したこと、同十五(1882)年三月の嘉悦氏房・山田武甫・岩尾(まま、男)俊貞らの反発・離反、「公議政党」の立ち上げから「九州改進党」の結成までの経緯が略述されているので一読されたい。


・「愛親社」結成と「熊本紫溟会」の発会

渋江公寧は、明治十三(1880)年に、「遜志堂」の塾生など30余人を勧誘して「主権在君主義」の「愛親社」を結成している。『公寧日記』によれば、同十四(1881)年二月から八月までの毎週土・日曜の夜ごとに、盛んに「演舌会」を実施した。その演題は、教育・修養論や平等・国会開設・結社などの政治論が中心であった。山口は、前述した九月一日の「熊本紫溟会」の発会式に参加するための「演舌会」の猛練習をしていたと推測している。

公寧はその直後の九月十日に「愛親社」臨時大会を開催、「熊本紫溟会」の趣旨説明や入会の提案などを協議、十月一日には「愛親社」内に「熊本紫溟会菊池支部会」を設置した。さらに明治十五(1882)年十月十三日には、先述した「西京立憲帝政党大懇親会」に「熊本紫溟会」の会員として参加するなど、ますます党派性を明らかにし、政治的な関心を強めていった。

政府が、「明治十四年の政変」を機に、10年後を目途に「国会開設の詔」が発布されると、一斉に「自由党」や「立憲改進党」、やや遅れて「立憲帝政党」が結成され、各政党は、明治二十三(1890)年の「第一回衆議院議員総選挙」での多数議席獲得のために運動方針を切り換えた。同十七(1884)年頃になると、「自由党」も「立憲改進党」も解党、熊本県では、政党の「紫溟会」は研究主体の「紫溟学会」に変わり、実質は「国権党」の母体となった。


2、県会議員として

明治十九(1886)年からの「三大建白運動」を契機に、全国的に「自由民権運動」は再燃すると、政府は同二十(1887)年十二月に「保安条例」を発布、活動家560人の東京退去を命じた。この時期を経て、公寧は明治二十一(1888)年三月の県会議員補欠選挙に「紫溟会」から立候補して当選、同二十五(1892)年十月に満期で退任している。

公寧の県会議員としての4年7か月の行動を見ると、県会議員以前では、公寧は「熊本紫溟会」の下部組織として、明治二十年六月に「熊本壮年会菊池小会」、翌二十一年一月に第一回「菊池郡老壮親睦会」、三月には第二回を実施し、県会議員当選後の五月には、第三回目の「菊池郡老壮親睦会」を開催するなど、積極的に政治活動に邁進していた。


・菊池武光の「勤王主義」から「神州国権」の拡大へ

特に第三回「菊池郡老壮親睦会」で、津田静一がこれまでの国内対象の「勤王主義」から、対外を視野に入れた「愛国主義」、そして菊池武光を表に出しての「神州国権の拡大強化」を謳い上げる演説をした。これは、「紫溟会」の「国家主義」への思想的変容の過程をよく示した演説で、その大意はつぎのようなものであった。


続いて津田静一登壇、愛国主義と題し、一大演説を試みた。その大意に曰く、今や嘗ての詭激乖戻(きげんかいれい、言行が度を越えて激しく、逆らい叛くこと)の邪説は、漸く影を潜めたけれども、海外の形勢は我が国に対し、益々危険逼迫となって来た。されば従来内に向って呼號してゐた勤王主義は、之を変じて愛国主義となし、その鋭鋒を外に向けなければならぬ時機となってゐる。

しかしながら現今我が国に於て真正の愛国主義を抱くもの、果して幾人かある。世は滔々として洋学に心酔し、赤髯漢(外国人)の奴隷たるに甘んずるか、然らざればその思想頗る幼稚で、外国の何物たるかを辨へざるもののみ、邦家の前途憂慮に堪へぬものがある。

思ふに、菊池郡は既に勤王主義を以て、天下に率先された故地なれば、今その鋒を愛国主義の方向に転ずるは易々たるものであらう。況んや勤王といひ、愛国といふ、元同物異名の思想である。決して別種のものではない。

故に菊池正観公(武光)の如きも、内 皇室に対し無比の忠節を盡すと共に、外明国に対してはその使臣が齎(もたら)した書辞の不遜(思い上がり)を卻(しりぞ)け、以て神州の威光を輝かしたことは国史の示すところである。

菊池郡の有志諸君、願くは正観公を範として、より大に愛国主義を伸張し、以て神州の国権を拡大強化されんことを望むと。           

(『肥後渋江伝家の文教』433頁下~434頁上)


・「紫溟会」菊池支部の中心的存在

渋江公寧は、第一回衆議院議員総選挙の前年、即ち明治二十二(1889)年四月一日には、菊池地方で「紫溟会公開演説会」を開催した。すでに「紫溟会」菊池支部の中心的存在であった公寧は、「大日本帝国憲法」の発布後は、一層「国権党」の正当性と他政党への攻勢を強めていた。

例えば、同月九日には、米原(現・山鹿市菊鹿町)の「改進党談話会」の会場に乗り込んだり、また明治二十三(1890)年七月一日、第一回衆議院議員総選挙で、勝算のない第三区(山鹿・菊池・合志郡)の九州改進党員ら150余人が、勝算のある第四区(上・下益城郡)へ寄留させた作戦を摘発したりしている。

さらに明治二十五(1892)年七月には、花房村会議員の半数改選の際、紫溟会員が、改進党系勢力の強い花房村で、同派が有利になるように選挙人名簿を工作したとの風評を聞きつけ、村長を糾弾し、これが「腕力沙汰」として、紫溟会員が警察に拘束された「花房村役場襲撃事件」を引き起こしている。公寧は、以上のように「改進党」への直接行動の先頭に立っていた。

それ以外では、公寧は、県会議員として、明治二十一年一二月の熊本師範学校女子部建設問題、翌二十二年八月には大隈重信外相の条約改正批判・撤回のために上京、同二十四(1891)年には松平正直知事の私立学校の整理・統一問題、同二十五年七月十日には県会常置委員として五高第一回卒業式に参加、同年十月には鉄道会議の上京委員、また翌二十六(1893)年夏は条約改正反対大会に反対請願書を持って上京している。

山口泰平は、明治二十三年の第一帝国議会からの国会での吏党と民党の攻防をはじめ、特に第一次伊藤博文内閣と条約改正をめぐる第五・六議会での対外硬派と対外軟派の反政府行動、同二十七(1894)年七月一日の「日清戦争」開戦前夜の日・清・韓の交渉及び「日清戦争」の経過、宣戦布告以前の熊本での義勇団の結成などについて『肥後渋江氏伝家の文教』で詳述している。


3、国会議員として

明治二十七(1894)年九月に実施された第四回衆議院議員総選挙は、まさに「挙国一致」の選挙(山口は「軍国総選挙」という)であり、「国権党」と「九州改進党」が、相互に推薦・投票しあう選挙であった。佐々友房は「往々熊本人は国家を知りて、党派を知らざる」と感謝している。

この総選挙では、公寧は紫藤寛治とともに、第三区から「国権党」として立候補、両者共に当選、十月十五日に大本営のある広島で開かれた第七臨時帝国議会から国会議員として出席した。この帝国議会は、「日清戦争」の臨時軍事予算を満場一致で、しかもわずか5分で通過させたまさしく「挙国一致」の国会であった。公寧は、その状況を父晩香宛ての書翰で、詳しく書き送っている。

公寧は、明治二十八(1895)年一月からの第八帝国議会のために上京したが、若い頃からの糖尿病の持病が悪化する心配もあって、弟公雄が同伴した。公寧は今期議会では請願委員であった。公寧の『在東京日記』には、国会開院前後の様子や毎日の国会議員・知人・請願者などの来客名、葉書・封書などの枚数が記され、公寧の病を押しての多忙さと困惑の様子を垣間見ることができる。

第八帝国議会は政府案通りの予算通過、出征軍への感謝と慰労を採択などして閉会した。山口は「日清戦争」「下関条約」「遼東半島返還問題」(「三国干渉」)などについても詳述している。

渋江公寧は、議会閉会後に帰省、明治二十八(1895)年十月十日から五週間、病気療養と体力回復のために、豊後の湯平温泉に湯治に行ったが、その間の書翰には父晩香の息子公寧に対する慈愛、公寧の両親・夫婦・親子の情愛が正直に綴られて、ある種の感動をおぼえる。

公寧は、十二月十八日にやや回復した病身を押して上京した。第九帝国議会は、同年十二月二十八日に開院、翌二十九(1896)年一月から審議に入りした。今国会では、明治二十八年五月十日の「遼東半島返還問題」や十月八日の「閔妃殺害事件」(翌二十九年二月十一日の「朝鮮政変」に発展)の対外問題や戦後経営(軍備の整頓充実・経済発展の規画・財政の強固)とそれに伴う増税案など、国内問題も山積みされていた。


・「郡名問題」

重要法案がほぼ通過した頃、政府は本国会に大阪府・神奈川県など27府県の「郡廃置法案」を提出、明治二十九(1896)年四月一日から施行することにしていた。熊本県に関する議案では、「熊本縣肥後國飽田郡及託麻郡を廢し、其の区域を以て飽託郡を置く、肥後國山鹿郡及山本郡を廢し、其の区域を以て鹿本郡を置く、肥後國菊池郡及合志郡を廢し、其の区域を以て菊志郡を置く」ことになっていた。

衆議院では、この議案を特別委員会に付託、ほとんど政府原案の通りであったが、「菊志郡」に関しては、熊本県第三区選出の紫藤寛治は「菊志郡」を支持、渋江公寧は旧名「菊池郡」を主張するなど、意見が対立した。公寧の理由は、「該地方は菊池氏歴代忠君の偉業を立てた根拠地」で、「この名称を永久に保存するのは、風教上極めて必要」との意見であった。

委員会では両者の間で大議論になったが、修正案の「菊池郡」に決定、本議会で承認された。山口は、その詳細な経緯として、衆議院・貴族院の「官報速記録」を転載・紹介している。

昭和十四(1939)年十月十三日、安達謙蔵は「三賢堂」(菊池武時・加藤清正・細川重賢)下の自邸で、この顛末について、山口泰平につぎのように語っている。


(前略)菊池合志両郡併合の郡名については、中々やかましく論ぜられた。合志郡出身代議士紫藤寛治氏は原案賛成説であった。その言分は両郡民の感情融和の必要上菊志郡と名づけねばならぬといふにあるし、同じく代議士渋江公寧氏は菊池の歴史的古名を保存して、併合後の郡名を菊池郡とすべしと論じた。党でも自ら議論が両説に分れ、容易に纏まりが付かぬ。

紫藤氏は寡黙重厚の君子人であったが、自己の主張する原案維持説が動(やや)もすれば棄てられさうになったので、非常に立腹され、果ては党を脱するとまで意気まかれるのであった。党では到底全員一致の見込が立たぬので、遂に衆議院本会議の自由討議に任せる外なきに至った。郡名問題の裏面にはかうした紛糾を重ね、党議を決せずして議会に臨んだ。

渋江氏は自ら議会の壇上に起って、大に菊池氏の誠忠を讃美し、郡併合の結果、この菊池なる名称を永久に地上より消滅さすことは、無考の甚だしきものであると力説し、原案の菊志を改めて菊池とするの修正動議を提出された。この論は當時の議会速記録を見れば明かである。渋江氏のこの動議演説は全議員の納得するところとなり、採決の結果可決確定するに至った。菊池の歴史的名目が永久に残るのは、正に渋江公寧氏のお陰である。これは氏の政治生活中、特筆大書に値する大功だといってよろしい。


第九帝国議会閉会後、公寧の病状は悪化し、糖尿病に呼吸器病(肺患)を併発しました。心配した老齢の父晩香は、東京まで出向き、付きっきりで看病、伊香保温泉での保養も行ったが、病状は一進一退を繰り返すだけであった。父子は、夏に向かう暑い東京での治療に見切りをつけ、八月八日に東京を離れ、大磯-尾道-船小屋などで途中下車をしながら、4週間もかかって、八月末にやっと菊池の地を踏んだ。

その後、家族全員による手厚い看病にもかかわらず、公寧は、父晩香に「不孝」の一言を残して、明治二十九(1896)年十一月三十日に他界、享年39歳であった。そして明治三十二(1899)年四月五日には「招魂祭」、その後「建碑式」が行われた。その墓碑銘は佐々友房の撰文である。


おわりに

明治期の「菊池氏顕彰」は、「遜志堂」塾主晩香の「漢学による日本主義教育」的な方針と公寧の「紫溟会」(「国権党」)の党員、その後の県会議員・国会議員としての政治活動を経る中で、次第に「政治的イデオロギー」が着色されていった。

江戸期の「菊池文教」は、初めの「菊池古学」(後に「朱子学」)と「菊池氏顕彰」の二本立てで、歴代の渋江塾主たちもこの両立を懸命に堅持していたが、「菊池文教」の中の「菊池古学」即ち「文芸」部分が希薄になり、逆に「菊池氏顕彰」の方は幕末期の「後期水戸学」の影響もあって、次第に濃厚に変質していった。

その過程で、本来の「菊池氏顕彰」に「南朝正統論」が加わり、中世菊池氏の「南朝一辺倒」が「菊池南朝史観」となり、やがて「南朝」の部分が消え、「皇国史観」に改編されてしまった。この段階で本来の江戸期の「菊池文教」の目的は消亡してしまったと考えている。

明治政府の政治的な動向とそれに連動した文教政策は、特に「皇国史観」と「軍国主義」の進行によって、従来の「菊池氏顕彰」は大日本帝国の表舞台に引き出された。その上に戦時下には「菊池精神」の新造語の下で大々的に利用され、ついには「特攻精神」にまで肥大・翻弄されてしまった。この経緯は本来の「菊池氏顕彰」の目的を完全に逸脱している。その再確認作業が今日の「菊池文教」の再興に不可欠であろう。





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