[2019/8月号]中世を駆け抜けた「風雲菊池一族」が、今よみがえる ~勢返しの滝~

平安時代から室町時代後半までの約450年にわたって菊池地方に勢力を持った一族の物語

画・橋本眞也(元菊池市地域おこし協力隊) 解説・堤克彦(熊本郷土史譚研究所長・文学博士)


 狭間川上流、現在の「龍門ダム」の下、「龍神神社」のすぐ横に、この「勢返しの滝」があります。絵では、子供たちが集まって川遊びに興じている様子が描かれています。私たちの子供の頃には、よく見かけた夏の風物詩です。つい川遊びに夢中になって、長い間冷たい川に入っていたので、気づいた時には唇は紫に変色、身体をブルブル震わせながら上って、真夏の太陽で熱くなった岩肌に、冷え切った身体と唇を押し付け暖めた経験を、いまでは楽しく懐かしい思い出す人も多いのではないでしょうか。

 さてこの「勢返しの滝」については、享保十七(1732)年の宗善右衛門尉重次著『菊池温故』の「川の事」や寛政六(1793)年の渋江松石著『菊池風土記』の「山河」の中に記されています。両著とも同じ内容ですので、約60年早く著された『菊池温故』の方で紹介することにします。

 狭間川の水源は「菊池郡班蛇口村の内穴川村と豊後国日田郡津江堺(境)一ノ坂という所」にあり、この川筋の「長野村の内に勢返しという所、景色勝れたる滝有り」と紹介、その「水中の岩石に白筋(白い筋目)、互いに縄をはえちらしたる(這え散らした模様の意か)ごとくにて、一丈(3m)・二丈(6m)乃至八丈(24m)も、石の大小に依りて明白に有り。また丸の内に三ツの星なども有り、瀧より下も(しも)に鞍を置きたる如く成る石、また鎧のごとくに白キ絵がら(絵柄)有るいしなど有りて、他に異なる川なり」と説明しています。

 『菊池風土記』の「山河」には、この「勢返しの滝」の様子を「左右共に岩石に白理(細やかな白い筋目)有て佳景(すばらしい眺め)」であり、「二三十(1760~1770)年以前迄は、鞍形又鎧形的(まと)など様の石、白筋画がごとくに種々有し」であったのを、古老の中には見た者も多くいたが、「今は的鎧形の石のみ残れり。余はいつとなく潦(にわたずみ、増水)にて流れて覆り(ひっくり返り)見へず」と記しています。

 そんな狭間川の上流域で「勢返しの滝」と名付けられる事件が起こりました。「豊後国の住人、津江郷に長谷部山城守信経、連年(幾年も続き)菊池家と不和なりけるが、或る時、菊池武光公、この所に川逍遥(川巡り歩き)有りけるを、信経聞く付け、願う所の幸と、三百余人にて馳せ来り、討たんとせしを、武光公わずか二十四人〔『菊縣温故』には「此の二十四人は有名衆計りなり。雑兵は数知らずと云う」の細注〕にて追いちらし、百余級の首を討ち取り給う。信経討ち負け、引返したる所にて、勢返しというなり」と、名称の由来を記しています。

 また『菊池風土記』には、この「勢返しの滝」について、「宝暦(1751~64)の頃、秋山玉山(1702~63、藩校「時習館」開校・初代教授)先生、予が家翁(渋江家の古老、渋江塾初代紫陽)など同伴し、此の所に遊覧、其の節「勢旌瀑」(せいせいばく)と書いて、詩など作り給ふ。今文人「勢旌瀑」と書するは玉山先生に始まれり」と紹介、おそらく秋山玉山らはこれらの鞍形や鎧形の的石、白筋の巨石を見れた可能性はあります。

 この武光と豊後国津江郷の長谷部信経の「勢返しの滝」での衝突は菊池氏と大友氏の対峙があり、中世の九州では、各領主が自領を確保した上で、他領の地の席巻・拡大に鎬を削りました。特に武光が懐良親王を擁して「征西将軍府」を大宰府に樹立する頃、九州での領主間の対立は一層激しくなりました。

 私たちは菊池氏の根拠であった地域に住んでいますので、どうしても菊池氏中心に考え、菊池氏を「官軍」扱いしまいがちですが、30年程前に「久留米市立図書館」で「草野家文書」を調査した時、北朝方の草野氏が南朝方の菊池氏を「賊」と表現した古文書に接し面食らった経験がありました。

 しかし南北朝期を九州中世史という視野で考えますと当然のことであり、地元での菊池氏研究にこのようなグローバルな視点が必要と思っています。その解明の一環として「菊池市立九州中世史料館(博物館)」の早期実現を期待しています。(禁無断転載・使用)

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