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[2020年3月号]中世を駆け抜けた「風雲菊池一族」が今よみがえる~菊池十八外城 うてな城


写真 『菊池風土記』(原本)の「乍恐奉伺覚」の一部

この絵は橋本氏が我が家に描画の歴史的整合性を聞きに来られた時に話したのをヒントに仕上げられたものです。その話の内容とは『菊池風土記』(原本、活字本には未収録)に寛政六(1794)年七月の「乍恐(おそれながら)奉伺(うかがいたてまつる)覚(おぼえ)」(写真)のつぎのような記述に依拠したものでした。



「一、通物・行列・物真似の儀も、右の時節より相始まり候。御凱陣の刻(とき)、御家中の御女中方・侍衆を挟み竹と申すにはさみ、水嶋河原と申す所迄、御迎えの為御出で成られ候節、農商家の者迄寿(ことほぎ)奉り、種々俄踊(にわかおどり)を致し、此の儀吉例と罷り成り、毎年七月朔日の夜より十五日夜迄、御凱陣御輿行列并びに御女中方通行、農商家の者共も悦び奉り、たわむれ踊を仕り候由。其の踊のなまび(嘉例)と仕り来り候」

この内容について、いろいろ江戸期の著作を調べた結果、正平十四(1359)年七~八月の「筑後川の戦い」(大保原合戦・大原合戦)で、懐良親王・菊池武光勢が少弐頼尚勢に勝利、同十六(1361)年八月に大宰府入り、十八(1363)年に「征西将軍府」を開設した翌十九(1364)年七月頃に、懐良親王・武光一行が菊池に「御凱陣」した時の様子の記述で、現在の「菊池神社秋季例大祭」の「神幸行列」の原形と推定できます。「松囃子能」もこれを機に、正月二日から七月十五日に変わり、現在では十月十三日に挙行されています。

即ち「菊池武光公勝軍」の「御凱陣御輿行列」の最前列は「神輿」と「凱旋」した懐良親王・菊池武光・武政で、ついで「武者行列」が続き、後尾には七城町水島まで出迎えた「菊池家中の女衆や侍衆」の行列でした。しかしこの「御凱陣御輿行列」は菊池氏滅亡後に取りやめられ、江戸期には一度も行われませんでしたが、明治十一(1878)年に「菊池神社」の別格官幣社昇格を記念して復活した形になっています。

現在の「神幸行列」に当たるのが最前列と武者行列の部分で、隈府町内で行われている「通し物」は、この行列の最後尾の「農商家の者共」による「種々俄踊」(たわむれ踊・物真似)の部分です。こちらは江戸期の隈府町人によって、毎年七月朔日夜より十五日夜迄の15日間にわたる町内の最大の余興「通シ物」(通物・行列・物真似)として受け継がれました。

なお詳細については、雑誌『KUMAMOTO』第29・30号(2019年12月・2020年3月)所収の拙論『「菊池神社秋季例大祭」の起源と「催し物」ルーツ考』(1)(2)をご参照ください。

【感謝と御礼】

これまで橋本氏の絵にマッチするように、客観的な時代考証に心掛けて解説してきました。これは菊池市主催の「菊池武光七〇〇年」祭に際し、少しでも菊池氏の歴史を正しく知ってもらいたいとの思いからでした。今後菊池市は昨年を「菊池氏顕彰元年」と位置づけ、これからも取り組まれることを期待します。

なお橋本氏の絵は「菊池十八外城」を含め、まだ残っていますが、特に15代武光の時代と限定しての解説を試みなくてもよいと判断、これでこのシリーズを終ることにしました。

この紙面はできるだけ多くの会員に活用されたスペースの方がよいと思い、これで筆を置くことにしました。長い間拙い歴史解説にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。また機会があれば、この紙面で会いましょう。楽しみにしています。

                              (禁無断転載・使用)

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