[2021年7月号] 熊本・菊池の歴史アラカルト

とっておきの                       2021年7月号

 熊本・菊池の歴史アラカルト (8)

古代菊池川流域は百済文化圏 ③-「江田船山古墳」出土の大刀銘


堤 克彦(熊本郷土史譚研究所所長・文学博士)

 いままで紹介してきた「江田船山古墳」の副葬品の発見に関して、明治六(1873)年一月一日午前二時頃、発見者池田佐十の夢枕に神(白狐)が現われ、清原台地の所有地を掘れとのお告げがあり、掘ったらお宝が現れる初夢を見ました。そこで四日から発掘したところ、朝鮮半島にルーツを持つ「家形石棺」に出会い、中から百済王族系被葬者の副葬品が出土したと伝えられています。

 その副葬品の中に銀象嵌の75文字の銘のある大刀(写真)があり、最初の「獲□□□鹵大王」に比定される大王には諸説がありましたが、昭和四三(1968)年に発掘された埼玉稲荷山古墳の鉄剣銘が「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」(雄略天皇)と読めること、漢字並びが同じであることから、江田船山古墳の

「獲□□□鹵大王」も同じく「獲加多支鹵大王」と解され、5世紀後半の雄略天皇の時には、すでに「ヤマト政権」は関東北部(埼玉県)から九州中部(熊本県)までを支配していた有力な考古学的

根拠とされ、今日では高校の日本史教科書にも通説として記載されています。


しかし金錫享氏や江口素里奈氏のように、この同一視に異議を唱える研究者もいます。両氏は江田船山古墳の「獲□□□鹵大王」を「復百済蓋鹵大王」(21代百済蓋鹵(コウロ)大王、在位455~475)と判読、25代武寧王(在位501~523)の父(また曽祖父)としています。

個人的には、この大刀が朝鮮系の「横穴式石室」内に置かれた九州系「家形横口石棺」から出土した百済王族系の副葬品であること、銘の表記が漢字の音訓を借りた古代朝鮮語、即ち「吏読(りとう)」(万葉仮名と共通)であること、「船山古墳」はもともと「先山古墳」ではなかったかなどから、両氏に近い見解を持ちさらに自説(次号で紹介)を展開しています。詳しくは拙著『肥国・菊池川流域と百済侯国』(トライ出版 2014年)などを参照して下さい。(禁無断転載・使用)


【追加説明】

1、教科書『山川日本史B』

(1)「資料から5世紀の日本を考える」の会話への疑問

冒頭に「身近な史跡・資料から考える」コーナーがあり、「資料から5世紀の日本を考える」として、教師と生徒の会話を掲載している。その内容は「先生」が「生徒」が、つぎの「通説」にたどり着くように誘導的説明するストリーである。果たしてこれでよいのか。その通説とはつぎのようなものである。

【通説】埼玉稲荷山古墳の鉄剣銘「獲加多支鹵大王」と江田船山古墳の大刀銘「獲□□□鹵大王」を同一視して、5C後半の倭国では「ヤマト政権」の「獲加多支鹵大王」(ワカタケル、雄略天皇)が、東は関東北部(埼玉県)から西は九州中部(熊本県)まで、すでに支配範囲にしていたとする考古学的資料・証拠と位置づけている。


 この見解には、東野治之氏の「治天下獲加多支鹵大王」(ワカタケル・雄略天皇)に代表される説であり、日本史学会では江田船山古墳出土の大刀銘「獲□□□鹵大王」の不明漢字を埼玉稲荷山古墳の刀剣銘「獲加多支鹵大王」と同様に「獲加多支鹵大王」と判読し、両銘とも同じ「雄略天皇」と解し、「ヤマト政権」はすでに関東から九州までを支配していたと説明する。

この見解は非常に短絡的で、いくつかの点での考古学的考慮がなされていない。例えば「埼玉稲荷山古墳」(礫槨・粘土槨)と「江田船山古墳」(家形横口石棺)の両古墳の埋葬形態の違いである。前者は「ヤマト政権」系の特徴を色濃く持つ「礫槨・粘土槨」であり、後者は5世紀頃に伝わった朝鮮系の「横穴式石室」の玄室に、九州系の「家形横口石棺」を置くなど、両者には明確な相違がある。

さらに「江田船山古墳」の大刀銘(銀象嵌)と「埼玉稲荷山古墳」の鉄剣銘(金象嵌)とその形態も銘文の内容もにかなりの違いがある。それは一応置くとしても、後者には者にない「4つの具象象嵌文」(「馬・花」、「魚・鳥」の組合せ)がある。ただそれだけの違いと思われるかもしれないが、この「4つの具象象嵌文」の有無が何を意味するのか、次号の「自説」で明らかにしたい。


(2)金錫享・江口素里奈説

またこれまでの【通説】と違った別の金錫享(キンシャッキョウ)・江口素里奈説を紹介しておきたい。

【別説】金錫享(キンシャッキョウ)・江口素里奈説では「獲加多支鹵大王」≠「獲□□□鹵大王」=「復百済蓋鹵(コウロ)大王説」(百済王)である。「江田船山古墳」の大刀銘(75字)を、つぎのように判読している。※印部分は古朝鮮語の「吏読」(りとう)読みである。


治天下復百済蓋鹵(コウロ・武寧王の父・加須利君)大王世、奉為〔たてまつる※〕典曹人名无利工、八月中〔に※〕、用大鑄釜、并四尺迀刀、八十練、六十振、三才上好迁刀、服此刀者長壽、子孫洋洋、得三恩也、不失其所統、作刀者名伊太〔で※〕、書者張安也。


この「吏読」は、①ハングル以前の古朝鮮語である「呉音」(「百済音」)を使用した「吏読」(りとう)による古朝鮮における漢字の特殊な使用法で、主として助詞・助動詞を示すのに漢字の音や訓を借りる我が国の万葉仮名に類する表記であること、また②「船山古墳」出土の大刀銘文は、朝鮮半島の独特の文脈と文体であり、帝王の臣下に対する臣属的な文言で構成されていて、百済王が北九州の王者(自説では「百済侯王」)に自分への臣属の印として与えたものと解している。その点から「獲□□□鹵大王」=「復百済蓋鹵(コウロ)大王」と判読している。


(3)【自説】の背景

拙著『肥国・菊池川流域と百済侯国』(トライ出版 2014年)では、この歴史的背景として、「百済国」の建国とその領地拡大をあげ、4世紀半ば「馬韓」の勢力拡大により、371年漢山城から泗沘(しび)城に遷都(扶余族)し、さらに「百済国」建国から1世紀後には百済系王族によって、各地に百済の政治体制である「檐魯」(タムロ)即ち支障国的な「百済侯国」を建設していた。

その一端として、百済系王族が菊池川下流域に渡来して、同様な「檐魯」(タムロ、たまなの語源説あり)をこの地域に設置して、「百済玉名侯国」の基盤とし、菊池川流域に「百済侯国」文化圏を形成・展開した。それが「江田船山古墳」であり、「鞠智城」(自説では百済難民施設併設)の築城であったと推測しているが如何。


(4)両銘の比較検討


稲荷山の鉄剣銘 船山古墳の大刀銘



 個人的には、金・江口説の「復百済蓋鹵(コウロ)大王説」(武寧王の父・加須利君、または曽祖父)の見解は、特に古朝鮮語「吏読」(りとう)による「大刀銘」の解読の仕方は捨てがたい。(後掲「新・菊池史譚」参照)

上の二つの漢字写真を比較すると、「獲」に似ているが別字の「復」にも近いので、金・江口説を採用し、「獲加多支鹵大王」(ワカタケル)≠「獲□□□鹵大王」=「復百済蓋鹵大王」(コウロ)としたい。

また前述したように、銘文は朝鮮半島の独特の文脈と文体から、帝王の臣下に対する臣属的な文言とされるので、やはり百済王が北九州の王者(自説では「百済侯王」)に自分への臣属の印として与えたものと考えられ、「獲□□□鹵大王」=「復百済蓋鹵〔コウロ〕大王」の方がより史実に近いのではないかと推測しているが如何。

【参考】

「高校日本史B」の図説資料には、【通説】埼玉稲荷山古墳「獲加多支鹵大王」=江田船山古墳「獲□□□鹵大王」の同一視による解釈と見解での掲載がなされている。また『日本史公辞典』の説明を紹介した「新・菊池史譚」201号(2009年3月30日)も参照されたい。

個人的には、金・江口説の「復百済蓋鹵(コウロ)大王説」(武寧王の父・加須利君、または曽祖父)の見解は、特に古朝鮮語「吏読」(りとう)による「大刀銘」の解読の仕方は捨てがたい。(後掲「新・菊池史譚」参照)

右の二つの漢字写真を比較すると、「獲」に似ているが別字の「復」にも近いので、金・江口説を採用し、「獲加多支鹵大王」(ワカタケル)≠「獲□□□鹵大王」=「復百済蓋鹵大王」(コウロ)としたい。

また前述したように、銘文は朝鮮半島の独特の文脈と文体から、帝王の臣下に対する臣属的な文言とされるので、やはり百済王が北九州の王者(自説では「百済侯王」)に自分への臣属の印として与えたものと考えられ、「獲□□□鹵大王」=「復百済蓋鹵〔コウロ〕大王」の方がより史実に近いのではないかと推測しているが如何。

【参考】

「高校日本史B」の図説資料には、【通説】埼玉稲荷山古墳「獲加多支鹵大王」=江田船山古墳「獲□□□鹵大王」の同一視による解釈と見解での掲載がなされている。また『日本史公辞典』の説明を紹介した「新・菊池史譚」201号(2009年3月30日)も参照されたい。







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