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[2022年07月号] 熊本・菊池の歴史アラカルト(14)

   『菊池の偉人・賢人伝』⑤ー「菊池正観公神道碑」建立の経緯

            堤 克彦(熊本郷土史譚研究所所長・文学博士)

  現在の「菊池正観公神道碑」

細川重賢は一連の「宝暦改革」を実施、宝暦五(1755)年に藩校「時習館」を開校します。その8年前の寛延元(1748)年に「渋江塾」初代の渋江紫陽は「集玄亭」を開塾していました。その教育目標は前号で紹介した「古学」(徂徠学)と「菊池氏顕彰」であり、渋江紫陽と第二代松石は菊池氏顕彰運動を始めました。

 その後菊池では明和期の1760年代に「菊池温故」(中島氏写)や「菊縣温故」(寺本直廉写)、安永元(1772)年に森本一瑞編著「肥後国誌」が上梓されるなど、次第に菊池氏顕彰運動は進みました。

 そんな中の隈府町豪商宗伝次は、宗家の祖先が菊池氏家臣で、27代の末裔として主君菊池氏の顕彰碑を建立したいとの思いが、渋江氏の「菊池氏顕彰」運動と一致し、宗伝次はその経済的な援助を惜しみませんでした。そして安永八(1779)年に、第15代菊池武光建立の「熊耳山正観禅寺」(菩提寺)境内に「菊池正観公神道碑」を建立しました。

 「正観寺」は武光建立であるにもかかわらず、境内には菊池武光の墓碑がなく、ただ墳上に植えられた大楠があるだけでした。それを悲しんだ宗伝次は、自家の墓所のある「正観寺」に「菊池正観公神道碑」を建立しました。 

その「菊池正観公神道碑」は湊川神社にある楠正成の「嗚呼忠臣楠氏墓」の形状と規模を原寸大とし、碑文は渋江氏と交流のあった第二代時習館教授薮孤山謹撰、渋江紫陽謹書、宗伝次謹建によるものでした。その碑文は角田政治著『贈従五位 宗傳次』(肥後地歴叢書刊行会 1928年)に所収されています。このように、江戸期の「菊池氏顕彰」は隈府住人たちの協力によって行われています。

 現在の「菊池正観公神道碑」をご覧になったことがありますか。近くから目を凝らして見ても、碑文らしき跡は見当たりません。一体どうしてなのでしょうか。最初その理由がわからず困っていました。ところがその理由を「横井家関係文書」の中で発見しました。

天保六(1835)年の秋、横井小楠は他六名と共に「菊池吟行」をし、「将軍木」、「守山古城」、「古寺」(正観寺)などを探訪し、「矢筈岳」はその遠望を詠んでいました。その時の漢詩集「菊池懐古」八編の中に、左方角三郎の漢詩(七言絶句)があり、その前半に「秋深古寺乱蝉聞。日暮断碑試読文。空繋赤心奉皇子。盟将金槊払妖気」と詠じていました。

 この漢詩は、「古寺」(正観寺)の様子を、秋深まる古寺では蝉のすだく声が入り乱れて聞える。日暮れも間近な中で、「断碑」即ち壊れた碑文を何とか読もうと試みると、空しくも赤き誠心を繋いで、懐良親王に奉ぜんとの思いが読み取れた。菊池一族の盟約は、将に金の長柄の槍で妖気を払うに十分であったという内容でした。

 「菊池正観公神道碑」の撰文は、楠氏だけが忠臣とされるが、菊池氏もそれに劣らぬ忠臣との文脈となっていて、左方が判読した「断碑」の内容と一致するようです。その後、何時誰によって、現在のような碑文なしの「菊池正観公神道碑」に復元されたのかでしょうか。ご存知の方がおられましたら、是非教えください。(無断転載禁止)



HP用

【資料】

〇角田政治著『贈従五位 宗傳次』(肥後地歴叢書刊行会 1928年)所収の「菊池正観公神道碑」の原文を掲載し、その「試読」(読み下し文)と大意を見ておきたいと思います。


【原文】

嗚呼元弘以至明徳四十餘年、王室之難、豈不痛哉、如夫皇統之有正閏、神器之有去就、雖非臣子之所敢議、然其君子小人之分、忠良乱賊之判、則天下後世自有公論、昭々乎不可得而掩矣、葢方是之時、忠臣烈士不為不多、然至其一門無叛心、数世全臣節、則末(まま、未)有如楠氏菊池氏之盛者也、楠廷尉(楠正成)崛起(くっき、そばだつ)倡(となえる)義、中興王室、其後屢諌不聴、殺身為仁、其子其孫、克遵(したがう)遺訓、與南朝相終始、其忠盛矣、至如菊池氏、則自寂阿(菊池武時)公首死王事、二子継興、能復君父之讎(あだ)、遂奉征西親王、専節鉞于一方、而宗族(一族・一門)子弟、無不同心協力以勤王事、是以中朝不競、海西大振、既而神器入洛、南方諸臣皆散、而菊池氏崛強獨存、傳二十五世、以終足利氏之代、此其忠誠無異於楠氏、而功則有加焉、楠公歿後三百餘年、常藩義公聞而慕之、乃建碑於其所戦歿湊川之上、請明遺民朱之瑜(朱舜水)撰其文、於是楠公之忠、益以顕著、而菊池氏之墟、則寥々莫聞焉、正観公之墳、在于墟之西南禅寺院中、歳年遼遠、無他表識、墳上獨有一大楠耳、邑人渋江氏父子痛之、喟(き、なげく)然嘆曰、菊池氏之忠烈如彼、而使楠氏獨専其美乎、謀之豪族於宗氏、宗氏奮而曰、是我之罪也、我先世皆事菊池氏、而被恩舊矣、乃捐財建碑、使渋江氏請予文鐫(ほる)之、正観公乃寂阿(菊池武時)公之仲子(次男)、諱武光、其忠烈功業、於数世中為最盛、事具史冊、渋江氏名公豊、字子錫、子名公正、字子方、宗氏名英盈(えいよう)、字傳次、如三子亦可謂勇於義矣、銘曰、

上菊池氏之墟。俯長江之浩蕩。仰箭筈之嶮峨。山川欝勃之氣。何為至今末(まま、未)除也。遽而悲風一起。萬木皆鳴。如王者師。聲罪討征。士馬踊躍。金鼓錚鏗(そうこう、銅鑼)。螻蟻(るが)之衆。莫之敢抗也。葢忠憤之氣。不可夭閼(ようあつ、とどめる)。故能激風霆(てい、いかずち)薄日月。雖経千百歳。而未嘗竭(つきる)也。況有数義士。隔世而緬懐。爰建碑石。以表泉臺。使人之拝観九原者。益思慕徘徊而不忍回也。噫嘻。盍(まま、蓋か)嘗觀大友少貮二氏墟與墓乎。寧有復泫然(げんぜん)而泣者耶。


安永八年己亥夏四月

熊府々學祭酒 薮 愨士(かくし)厚 謹撰

菊池   渋江公豊 子錫 謹書

菊池   宗英盈 傳次  謹建



【試読】

嗚呼元弘(元弘三〔1333〕年五月、鎌倉幕府滅亡)以(より)明徳(明徳三〔1392〕年閏十月、南北朝合一)に至る四十餘年、王室の難、豈に痛まざらん哉(かな)、夫れ皇統之正閏(南北朝正閏問題)有るが如し、神器(三種の神器)之去就(所在の有無)有り、臣子(有徳者)の敢て議する所に非ざると雖も、然し其の君子・小人の分(違い)、忠良・乱賊の判(判断)は、則ち天下後世自ら公論(意見・議論)有るも、昭々(隅々まで明らか)乎(か)得べからずして掩う矣(いずれもはっきりしていない)、葢し(もしや)方(まさ)に是の時、忠臣(主君に奉仕する臣下)・烈士(節義の堅い人)為らざるの多からず(非常に多いの意か)、然れども其の一門に至り叛心(謀叛を起そうとする心)無く、数世全き臣節(臣下の節操)は、則ち未だ楠氏・菊池氏の如き盛者(勢いの強い者)の有らざる也、楠廷尉(楠正成)崛起(くっき)して義を倡(となえ)え、王室を中興す、其の後屢(しばしば)諌めれど聴かず、身を殺して仁と為す、其の子其の孫、克く遺訓に遵(したが)う、南朝に與(くみ)し相終始、其の忠盛んなり矣、菊池氏の如きに至って、則ち寂阿(菊池武時)公首(はじめ)自ら王事に死す、二子(菊池武重・菊池武光)興を継ぎ、能く君父(主君と父、後醍醐天皇と菊池武時)之讎(あだ)を復(かえ)す、遂に征西親王(懐良親王)を奉じ、専ら節鉞(せつえつ、天皇に賜ったまさかり)を一方に、而して宗族(一族・一門)子弟、不同心無く協力を以て王事に勤む、是れを以て中朝(朝廷)競わず、海西大いに振い、既に而して神器入洛す(南北朝合一)、南方諸臣皆散ず、而して菊池氏崛強(強く飛び出し)獨り存りて、二十五世に伝え、以て足利氏之代を終る、此れ其の忠誠楠氏に異なること無し、而して功は則ち加え有り焉、楠公歿後三百餘年、常藩義(徳川光圀)公聞き而して之れを慕い、乃ち碑は其の戦歿する所湊川之上に建つ、明の遺民朱之瑜(しゅしゆ、朱舜水)に請うて其の文を撰す、是に楠公の忠、益す以て顕著、而して菊池氏の墟(守山古城)、則ち寥々(りょうりょう、ひっそりのさま)として聞くこと莫し焉、正観(菊池武光)公の墳、墟(守山古城)の西南禅寺(正観禅寺)の院中(境内)に在り、歳年遼遠(遥かに遠き昔から)、他に表識無し、墳上に獨り一大楠有る耳(のみ)、邑人渋江氏父子之れを痛む、喟然(きぜん、ため息をつき)嘆きて曰く、菊池氏の忠烈彼の如し、而して楠氏をして獨り其の美を専らにする乎、之れを豪族(豪商、菊池氏家臣)宗氏に謀る、宗氏奮い而して曰く、是れ我れの罪也、我が先世(祖先)皆な菊池氏に事(つか)え、而して恩舊(旧恩、昔の恩義)を被る矣、乃ち財を捐て(喜捨)碑を建てん、渋江氏をして予に文を請い之れを鐫(ほ)る、正観公乃ち寂阿(菊池武時)公の仲子(次男)、諱は武光、其の忠烈・功業は、数世中に於て最盛を為す、事は史冊(史籍)に具なり、渋江氏名は公豊、字は子錫、子の名は公正、字は子方、宗氏は名英盈(えいよう)、字は傳次、三子の如き亦義に於て勇と謂う可し矣、銘に曰く、

菊池氏之墟(守山廃城)に上りて。長江(菊池川)の浩蕩(豊かな水の流れ)を俯(みおろ)し。箭筈(矢筈岳・八方岳)の嶮峨(峻山)を仰ぐ。山川の欝勃(隆盛)の氣。何為(何すれぞ)今に至り未だ除(のぞ)かれざる也。遽(にわか)に而して悲風(悲しみを催す風)一起す。萬木皆鳴く。王者の師の如し。聲罪(罪〔不忠〕を聲にするの意か)は討征し。士馬(武士の乗った馬)は踊躍(騰躍)す。金鼓(陣中の号令)の錚鏗(そうこう、どらと打鐘)。螻蟻(るぎ、けら〔バッタ〕と蟻)の衆。之れ敢て抗する莫し也。葢し(まさしく)忠憤の氣。夭閼(ようあつ、抑え止める)すべからず。故に能く激しき風・霆(てい、いかずち)薄き日月。千百歳を経ると雖も。而して未だ嘗て竭(つき)ざる也。況や有数の義士(節義をかたく守る人)。隔世(時代を異にする)に而して緬懐(細く長く懐古するの意か)す。爰に碑石を建つ。以て泉臺(顕彰碑)を表す。人をして之れ九原(墓地)を拝観する者。益す思慕・徘徊而して回(拝観の回数か)を忍ばざる也(堂々と拝観するの意か)。噫嘻(ああ)。盍(まま、蓋しか)嘗て大友少貮二氏墟と墓を観る乎。寧(やすら)かに復(また)泫然(げんぜん、涙をこぼすさま)而して泣く者有る耶。


安永八(1779)年己亥夏四月

熊府々學祭酒 薮 愨士(かくし)厚 謹撰

菊池   渋江公豊 子錫 謹書

菊池   宗英盈 傳次  謹建



【大意】

 元弘三(1333)年五月の鎌倉幕府の滅亡より明徳三(1392)年閏十月の南北朝合一に至る四十余年は、朝廷にとって困難な時期であった。どうして心の痛まないことがあろうか。その間には「南北朝正閏問題」があり、また「三種の神器」の所在問題があった。

 私たちが敢えて論ずるような問題ではないが、然し君子と小人の違いや忠良・乱賊の判断について、天下には後世公論(意見・議論)は有るが、はっきり言ってまったく判断がついているわけではない。

 もしやこの時、忠臣(主君に奉仕する臣下)・烈士(節義の堅い人)の者が多いが、しかしその一門で叛心(謀叛を起そうとする心)なく、数世全く臣節(臣下の節操)は、これまで楠氏・菊池氏以外にはいない。

 楠廷尉(楠正成)は抜きん出て義を倡(となえ)えて、王室を中興した。その後たびたび諌言しても聞き入れず、みずからを犠牲にして仁を全うした。その子孫も克く遺訓を遵守し、南朝に與(くみ)すことに終始し、その忠誠心は盛んであった。

南北 朝が合一して、海西(九州)は大いに繁栄し、三種の神器は北朝方に渡った。南朝方の諸臣皆バラバラになったが、菊池氏だけが南朝方を貫き、二十五世にわたった。そして室町時代は終った。奉じ、専ら率先して戦い、また菊池一族・一門の子弟は、心を同じくして協力して王事に勤めた。

 南北朝が合一して、海西(九州)は大いに繁栄し、三種の神器は北朝方に渡った。南朝方の諸臣皆バラバラになったが、菊池氏だけが南朝方を貫き、二十五世にわたった。そして室町時代は終った。

 この菊池氏の忠誠は楠氏に異なることは無く、勲功に加えられてもよい。楠公没後三百余年、水戸藩の徳川光圀は楠氏のことを聞きて慕い、その戦没地の湊川に碑を建てた。明の遺民朱舜水に請うて碑文を撰した。これによって楠正成の忠は益々顕著となった。

 それに比して菊池氏の守山古城は、寥々(ひっそり)として誰もその忠功を聞くことがなかった。正観(菊池武光)公の墳は、守山古城の西南正観禅寺の境内に在るが、時代が経っても、他に表識はなく、墳上に一大楠があるだけである。

 隈府の渋江氏父子(紫陽と松石)はこれを悲しみ、喟然(ため息をつき)嘆きていう。菊池氏の忠烈は楠氏に劣らないが、どうして楠氏のみがその賞美を独り占めしているのか。このことを豪族(豪商、菊池氏家臣)宗氏に相談すると、宗氏は憤慨して曰く、これは我が罪である。我が先祖は皆な菊池氏の家臣で恩義を受けていた。そこで財を喜捨して碑を建てることになった。

 渋江氏は予に文を請い、これを鐫(ほ)った。正観公は寂阿(菊池武時)公の次男で、諱は武光、その忠烈・功業は、菊池歴代中で最盛であった事は史籍に詳しい。渋江氏名は公豊、字は子錫、子の名は公正、字は子方、宗氏は名英盈(えいよう)、字は傳次、この三氏の如きは亦義に於て勇と謂ってよい。銘に曰く、

 菊池氏の墟(守山古城)に上って、長江(菊池川)の浩蕩(豊かな水の流れ)を見下ろし、矢筈岳(八方岳)の嶮峨(峻山)を仰ぐ。山川の盛んなる氣は、一体何故今に至りまだ続いているのか。にわかに悲風(悲しみを催す風)が起り、万萬木皆鳴く。王者の師のようだ。

 不忠者がいれば討征し、士馬(武士の乗った馬)は踊躍(騰躍)し、金鼓(陣中の号令)の錚鏗(どらと打鐘)が鳴り響けば、虫けらのような者たちは敢えて抗するものはいない。まさしく忠憤の気は抑止できない。故に今日まで一一〇〇年を経ると雖も、未だ嘗て竭(つき)ないでいる。まして有数の義士(節義をかたく守る人)は、時代を越えても細く長く懐古をしている。

 ここに碑石を建てて泉台(顕彰碑)とした。人々をして九原(墓地)を拝観する者は、益々思慕・徘徊して、拝観の回数が多くなることを期待する。嘗て大友・少弐二氏の古城と墓を観たが、寧(やすら)かに涙をこぼして泣く者がいた。


安永八(1779)年己亥夏四月

熊府々學祭酒 薮 愨士(かくし)厚 謹撰

菊池   渋江公豊 子錫 謹書

菊池   宗英盈 傳次  謹建


つぎの「熊耳山正観禅寺境内畧圖」は、住職のご厚意により閲覧・撮影させてもらったものである。境内の庫裏の左(東側)奥に「正観公神道碑」が見え、現在の景観と同じである。

明治40年頃の図版


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