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[2022年5月号] 「菊池の偉人・賢人伝」(4)

とっておきの

 熊本・菊池の歴史アラカルト (13)

『菊池の偉人・賢人伝』④-「渋江塾」初代渋江紫陽の「集玄亭」


堤 克彦(熊本郷土史譚研究所所長・文学博士)


 渋江氏は奈良の橘氏の出自、春日大社造営の匠として使役した人形を管理、竣工後の人形が河童の起源との伝承があります。後に渋江氏を名のり、肥前・肥後の「天地元水神社」の神官でした。肥後では隈府町内にその神社があり、水難防止の祭祀を行ない、また河童除けの護符を配っていました。肥後渋江氏の初代渋江公成以来、公実・公春・公清と代々家業の神職を受け継いていましたが、公清に子供がなかったので、弟の公豊(紫陽)が後を継ぎました。

 渋江紫陽(1719~92)の幼い頃は、武士の間ばかりでなく、それ以外でも武芸を重んじ、文芸(学問)は軽んじる風潮がありました。特に地方で読み書きのできる者は、藩の政治に口を出し批判したりする要注意人物と役人に睨まれ、周囲からも疎まれ敬遠されていました。

 しかし紫陽は、幼少から学問が好きで、少年時代には隈府の西照寺居住の水足博泉(平之進、1707~32)に、博泉の死後は山鹿郡分田村(現・山鹿市鹿本町)の加々見鶴灘(かがみかくたん、1704~51)について学びました。紫陽は人目を避けるため、昼間は家にいて、夕暮れを待って、分田村まで往復五里の道を通うなど、「刻苦勉励」の日々を送りました。二人の恩師の学問は、いずれも「古学」(徂徠学派)と「菊池氏顕彰」でした。

 水足博泉は、幼い頃から秀才の誉れ高く、13歳の時、父屏山とともに大坂の西本願寺で「朝鮮通信使」と会見、著名な朝鮮学士申維翰(しんゆはん)と、堂々と詩文を筆談で唱和、申維翰は感激して「博泉」の号を贈り、その名は韓国にも知られていました。また16歳の時、「古学」の祖荻生徂徠から、その天才ぶりを「老成の風あり、必ず名を天下に上げん」と評され、「東肥の水」・「海内の君子」と褒められています。

 加々見鶴灘は、「敏才絶人」(優れて悟りが早い才能を持ちながら、世俗から遠ざかった人)で、「高節」(人よりぬきんでた堅い信念)・「温厚」(人あたりがやわらかくてまじめなさま)・「簡貴」(簡素で高貴なさま)の性格、その志は「高遠」・「清白」を兼備した「好学」で「篤学」な人でした。

 また鶴灘は、門弟たちに「道義」(人の踏まなければならない道)を講じ、「志行」(志も行いも立派であること)を激励する教育を施し、その教授法は「諄々然」(しゅんしゅんぜん、諄〔くど〕いほど懇ろ)でありながらも「導而不牽、開而不達」(導くに牽せず、開くに達せず)、即ち決して門弟たちに強制したり、強引に教え込むようなことは一切しませんでした。

 そんな教育を受けた紫陽は、青壮年になっても自らの向学心を絶やさず、京都の蘐園(荻生徂徠の「古文辞学」)や堀川(伊東仁斎・東涯の「古義学」)二家の「古学」派の説を学んでいます。そして門弟たちには、「古学」と「菊池氏顕彰」を教授しました。このように水足博泉と加々見鶴灘の多大な影響のもとで「菊池学」即ち「文教菊池」は始まりました。

やがて紫陽の学問と学識は、肥後藩庁に認められ、晩年は教導師に任じられました。紫陽は家業の傍ら、隈府町内で寛延元(1748)年に家塾に「集玄亭」(写真、亀井南溟嫡子昭陽書)を掲げ、漢学・詩文・筆道など、年齢に制限なく教えました。門弟数は三百余人、授業料は門弟の親たちからの思い思いの寄付でした。

 私たちが何か新たな事業を起す時、その命名にはその目的や思いの凝縮したものにしますが、渋江紫陽は塾名「集玄亭」にどんな思いを托したのでしょうか。おそらく「集玄亭」の「玄」は「玄石」、即ち「磁石」が自然にひきつけ合うように、また「玄人」、即ち好学心の強い人たちが、さらに己を磨く「為己学」(為学)を目指し、お互いに切磋琢磨する者が集まる塾の意ではないかと解していますが如何でしょうか。「集玄亭」に集う好学の門弟が何と「三百余人」もいたというのは驚きです。



菊池市立図書館蔵

 なお詳しい水足博泉と加々見鶴灘の人物評はHPを見てください。また200年に近い渋江塾の歴史については、山口泰平の私家版『肥後渋江氏伝家の文教』全七巻(菊池市教育委員会・覆刻版)に詳しく、私が「解題」を担当していますので是非一読ください。(無断転載禁止)



HP用

【資料】

〇資料として、月刊「熊本郷土史譚通信」第43号(2014 年11月)特集 江戸期「菊池文教」の源流と展開 (1) -渋江紫陽の師、水足博泉・加賀美鶴灘-から、一部を紹介しました。


一、肥後古学派と「菊池古学」の祖

水足博泉と加々見鶴灘は、藩校「時習館」の初代教授秋山玉山や片岡朱陵と同時代の儒者で、荻生徂徠の「古学」(古文辞学派・徂徠学)を学意とした人物でした。


1、水足博泉(みずたりはくせん、平之進、安方、斯立 1707~32)

(1)「博泉」の号 

水足博泉は、幼い頃から秀才の誉れ高く、四歳の時、群児らの「霧降る」を「百人一首」により「霧立のぼる」と訂正したとか。また十三歳の時、父屏山とともに、大坂の西本願寺で「朝鮮通信使」と会見、著名な朝鮮学士申維翰(しんゆはん)と、堂々と詩文筆談で応答、かつ漢詩唱和でも応酬しました。申維翰は非常に感激し、字は「斯立」、号は「博泉」と付し、韓国でも知られていました。

水足博泉の「奉呈 申先生」には、つぎの七言絶句があります。


修隣千古自朝鮮 帆影随風到日辺 為問海山好材料 満嚢珠玉幾詩篇


【大意】昔から友好の隣国朝鮮より、通信使が風に乗った帆船で来日された。お尋ねします、日本の海山は漢詩の好材料になりますか。多くの珠玉の漢詩で袋一杯になったことでしょう。


・「東肥の水」 また十六歳の博泉は、「古学」の荻生(物)徂徠・伊藤東涯に書を送り、疑義を問うています。徂徠はある書の訓点句読をさせ、即座になせば「双耳」を切り与えんと約束したとか。そしてその天才ぶりを「老成の風あり、必ず名を天下に上げん」と評し、「東肥の水」・「海内の君子」と激賞したといいます。その博泉は「徂徠学」を信奉し、「朱子学」を批判しています。

・隈府籠居 ある夜、肥後城下の水足家に賊が侵入、刃傷沙汰の事件が起りました。博泉は父屏山ともに防戦しましたが、父は斬死、博泉は12カ所の負傷、九死に一生を得ました。文名高かった屏山・博泉だけに、この事件により「文人軟弱」の批判を受け、藩から禄を召し上げられてしまいました。

隈府町の西照寺住僧即空は、その博泉を隈府に招き、境内に書院を建てて匿(かくま)いました。博泉は西照寺在住中の享保十四(1729)年二十二歳の時に「菊池古城記」(後掲)を撰しています。また渋江紫陽など地元の子供に学問を教えていましたが、「傷寒」(腸チフス)に罹り(自殺説あり)、二十六歳で死去しています。短期間でしたが、紫陽少年にとって博泉の影響は大きく、これが江戸期の「菊池文教」の契機となり、「菊池古学」(徂徠学)の系譜の源流となりました。


(2)水足博泉の学意

 水足博泉には「文武一途」・「学校の重要性」・「学問の順序」について論じていますので見ておきたいと思います。

・文武の目的 「今の学ぶ者は、身を文辞に委ねて、武を習はず、皆腐儒たるを免れず。文は聖人の道にして、天下の共に由る所のもの、其の極は必ず禮楽に至りて後已む。文の外に別に武有るに非ず、楽にも文武藝あり、射にも文牽武放あり。而今腐儒至って、多きも武を習はざるが以(ゆゑ)に非ずして、正に能く文に通ぜざるが以(ゆゑ)のみ」(「加々美鶴灘の問に答ふる書」)

・学校 「先王の道は、教化より大なるは莫(な)く、教化の器は、学校より大なるは莫(な)し。学校は譬へば洪鑪(こうりょ、大きなやすり、磨く道具)の如く、人才を鎔鋳(溶かし、人を感化・養成する)する所以なり」(『太平策』巻二「古学校」)


写真 「菊池古城記」(西照寺蔵)

・読書の道 「古に通ぜざれば、則ち今を知る能はず、古に通ぜんと欲せば、則ち典籍を捨てゝ(以外に)、何を以(もち)ひんや。経は日月の如く、史は河漢(天の川)の如く、諸子百家は衆星の粲たるが如し。此三つは人文の淵藪(えんそう、物の多く集る所)なり。是を以て史学を先にし、之に次ぐに諸子百家を以てす。経術は後に居る。故に読書の道は、

史学より先なるは莫く、文章の器は、史才より雄なるは莫し。史なるかな、史なるかな、

天下の大なるを務存す」(『太平策』巻七「通古今」)              


(3)「菊池古城記」

 「菊池古城記」は、「史学」を「諸子百家」や「経学」(漢学)より優先させた水足博泉が、享保十四(1729)年冬、二十二歳の時に書いた漢文の撰で、天文二十三(1554)年の菊池氏滅亡から約175年後に書かれたもので、西照寺に所蔵・保管されています。(右写真)

 すでに井澤蟠龍の『菊池軍記』(宝永元〔1704〕年)や『菊池佐々軍記』(宝永七〔1710〕年)が出版されていました。水足博泉の「菊池古城記」はその20年後の撰ですが、かなり早い著述の一つです。その3年後の享保十七(1732)年には、宗善右衛門重次の『菊池温故』・『菊縣温故』が上梓されています。江戸期の「菊池文教」はその発端から「古学」と「菊池氏顕彰」がセットになっていました。

 ここでは「菊池古城記」(原漢文)を読み下しにして紹介しておきましょう。


             写真「菊池古城記」(西照寺蔵)

菊池古城記 

 肥の先侯菊池は隈府の城に居す、今已に墟なり。其の郛郭(ふかく、くるわ)・溝渠(こうきょ、ほり)尚存せり。夫天に日月・星辰有り、人に忠義の節有り。此の二者は、萬古を貫き、而して銷盡(しょうじん、とけてなくなる)せざる者也。

 菊池、世に勤王の帥を唱へ、将軍(征西将軍宮懐良親王)の為に膝を屈せず。其の遺烈、風雨と為り、雷霆(らいてい、かみなり)と為り、金石と為り、草木と為る。人知(人間の知恵)愚と無く望みて、而して英雄の精霊、凛々として、然も今に至り滅せざるを知る哉(かな)。

 土人(地元民)語ふて曰く、菊池氏の侯、地を裂き、城封を分ち、枝属(しぞく、一族・庶族か)・稗将(小武将か)数十を以てす。犬牙(けんが、所領の境界)相制(互いに牽制)する勢い有り。而して是の城、山河の形に拠り(利用して)、要害の固めに就き、九州の吭(こう、のど)を卜し、以て子孫長久・不抜(不動)の基と為す。謂ふ所(所謂)用武の地にて、天府(天然の要害)なる者なり、事無ければ、則ち士卒を精錬して、以て其の気(士気)を養ひ、事有れば、則ち轡(くつわ)を攬(と)りて長駆(遠征)し、以って其の勇を擅(ほしい)ままにす。

 勝てば、則ち東は阿蘇を取り、南は益城を取る。北は豊後を取り、西は筑後を取る。敗れば、則ち其の精鋭数十騎を與(くみ)て、逃げて山谷の間に入る。山谷の間に、虎口(こく)と斑蛇口(はんじゃく)といふ者(地域)有り。

 西国の至嶮(難攻不落)にして、蜀道(しょくどう、蜀の桟道、中国四川省北部にある要害の地)の難に彷彿(酷似)たり。丹嶂(たんしょう、赤い峰)・青壁(青い壁)は錯襍(さくざつ、錯雑、入りまじる)し、紆営(まま、紆縈か うえい、めぐる)・咫尺(ししゃく、せまい)の中に前後相失ふ(迷い込んで進路・退路が分からなくなる)。

 故に百萬の兵有りと雖も、得て擒(とら)ふべからざるといへり。地勢然りと為す。是に以て能く二十五世伝へて、名諸侯と為る也。其の亡ぶるや、時を以てし用兵の罪に非ざる也。

 菊池の先(祖先)は搢紳(しんしん、朝廷に仕える高貴な人)の貴族にして、則隆始めて封せられ、出てゝ菊城に守居すと云ふ。菊池は其の處を知る事莫(な)し。或は曰く、深川の北に在りと。爾後(その後)世に伝へて十六侯(十六代)武政に至り、始めて此の城(守山城)を営みて居る。又十世にして墟(廃墟)なり。其の間、兵を用ひて力戦すれども、勝ち計(ばか)りにあるべからず。天下、其の鬼を拉(ひし)ぐの将(武将)為(た)るを知らざる無き(知らない者はいない)也。然る雖も、是れ特に介冑(甲冑)・武辨(武人)の事、君子(有徳者)は之れを賤しむ。

 侯重朝に至り、学を好み、孔子の廟を建てゝ、春秋に釋奠(せきてん)せり。是れ亦盛んなりと謂ふべし。今は已に荒廃す。征西将軍に及んで城院・武庫を営む。只土人其の地を知る者有り。然るに菊池氏の澤(恩沢)、人に入れるや深く、今に至りて、隈府の民、先侯の時事を語りて、流涕(落涙)せざる者莫し。後の代侯は、佐々(成政)・加藤(清正)、威なると雖も、頃刻(けいこく、わずかの時間)にて亡ぶ。時の君、深根固帯の術(すべ)を知らんと欲する者は、必ず是の墟(古城)に於てす。

 余聞きて之を偉とし、遂に其の墟に登り、四顧(あたりを見回す)し、大いに呼(さけ)んで曰く、英雄已に没すとも、山川は故(もと)の如し、山川の故の如きも、亦(また)将(まさ)に奈何(いかん)せんや、于嗟(ああ)来古の人や、于嗟(ああ)来古の人や、竟(つい)に答ふる者無し。

      享保十四(1729)年冬        肥府儒臣水足業元(博泉)撰


【大意】この漢文は、博泉が廃墟の古城にたたずみ、往昔の菊池氏を懐旧し、その功績を顕彰したものです。菊池氏の武勲・武勇や戦略に触れ、菊池の難攻不落の地形を紹介し、それが菊池氏二十六代続いた要因としています。また菊池氏は「搢紳貴族」(公家)の出自であり、則隆が下向して「菊城」に居住しましたが、「菊池」の位置は不詳で、「深川の北」と、当時の俗説を紹介しています。

 また第十六代菊池武政の時に、本格的な築城(守山城)がなされたこと、その後は必ずしも勝ち戦ばかりでなかったが、「鬼を拉ぐ(押しつぶす)」武将として知れわたるほど、「武」に長けた菊池氏であったと紹介しています。

 その博泉は「君子は之(武)を賤しむ」として、第二十一代重朝の好学心や「孔子の廟」での春秋の「釋奠」などについても紹介し、「隈府の民」はこんな菊池氏の往時に涙を流すと記しています。

 その後の佐々成政・加藤清正はすぐ亡んでしまったが、時の君主は長く続いた菊池氏に学ぼうと、必ずこの廃墟に登ると聞いて、その志を褒めています。

 さらに博泉はそれを真似、自ら「菊池古城」(守山城)に佇み、泰然たる自然の山川と菊池氏の盛衰を比し、その思いを感慨深げに、むしろ絶叫に近い「于嗟(ああ)来古の人や、于嗟(ああ)来古の人や、竟(つい)に答ふる者無し」との文言で締めくくっています。


2、加賀美鶴灘(かがみかくたん、貞一・仲精・又太郎、1704~51)

 紫陽少年と水足博泉の出会いはわずか半年程でしたが、その後は加賀美鶴灘との師弟関係が続きました。武藤厳男著『肥後先哲偉蹟』(隆文館 1911年)によれば、鶴灘の父は小笠原備前秀清の曽孫権左衛門長定(鉄炮頭・二百石)で、兄の又兵衛長意(ながおき)が家督を継いでいました。

(1)鶴灘の人となり 鶴灘は「敏才絶人」(優れて悟りが早い才能を持ち、世俗から遠ざかった人の意か)で、「高節」(人よりぬきんでた堅い信念)・「温厚」(人あたりがやわらかくてまじめなさま)・「簡貴」(簡潔で高貴なさまか)の性格を持った「好学」かつ「篤学」の人でした。

 また鶴灘は、その志は「高遠」かつ「清白」であり、「口は擇言(言葉を選ぶことか)無く、身は擇行(行動を選ぶこと)無く」、即ち口や身が災いの原因になることは一切ありませんでした。

(2)鶴灘の隠棲と教育 そんな鶴灘にある士大夫から養子縁組の話があり、親戚一同は非常に乗り気で、盛んに勧めましたが、一向に応ぜませんでした。その後、鶴灘は城北清水(志水)村に隠棲(「先生居志水十有餘年」)して、門弟たちに「道義」(人のふまなければならない道)を講じ、「志行」(志も行いも立派であること)を激励する教育を施しました。

 その教授法は「諄々然」(しゅんしゅんぜん、諄〔くど〕いほど懇ろであること)でしたが、「導而不牽、開而不達」(導くに牽せず、開くに達せず)、門弟に強引に教え込むことは一切ありませんでした。

 門弟の中には数多くの知名人が輩出しています。『肥後先哲偉蹟』では、渋江紫陽や富田大鳳をあげていますが、富田大鳳は祖父龍門(1719~75)の誤りでしょう。因みに富田龍門は藩医、その子春山(1736~91)は中小姓から藩医、時習館句読師となった人でした。その子が大鳳(日岳、1762~1803)で、「皇室恢復」を持論とし、『大東敵慨忠義』編を著しています。

(3)鶴灘の学意 鶴灘は初代時習館教授の秋山玉山や細川重賢の侍講片岡朱陵と親交があり、学意は「物子の学」(物徂徠こと荻生徂徠)即ち「徂徠学」(「古学」)を好み、李王(朝鮮王朝か)の風を慕い、詩書を善くし、また射芸に精通した人物でした。寛延四(1751)年六月二十日死去、享年四十八歳。墓は山鹿市の光専寺にあります。

(4)博泉と鶴灘の関係 「桑満負郭墓碑銘」には、博泉と鶴灘の関係について「加賀美鶴灘者、聞蘐園復古之説而悦之、従博泉水足氏、問難古義、而其人素尚士行、雖事博泉如師、至於践履、即別所持守、蓋有道之士也」(加賀美鶴灘は蘐園復古〔荻生徂徠の古文辞学派・「徂徠学」〕の説を聞いて之を悦ぶ。博泉水足氏に従い難古義を問う。而して其の人素〔もと〕より士行を尚ぶ。博泉に事うること師の如くと雖も、践履〔実践〕に至る、即ち別に持守する所あり。蓋し有道の士なり)とあります。

・「菊池文教」と「徂徠学」 この両氏の関係から、渋江紫陽は初めて師事した博泉から「徂徠学」の手ほどきを受け、その後引き続き「物子の学」(「徂徠学」)の学意を好んだ鶴灘に師事しました。紫陽が最初に「徂徠学」(「古文辞学派」)の両師匠に師事した時点から、江戸期の「菊池文教」の基盤は「徂徠学」(「古学」)でした。

(5)「菊池文教」と「菊池氏顕彰」 水足博泉は前掲の「菊池古城記」を撰しましたし、鶴灘もまた「菊池氏勤王尚文之餘澤」即ち菊池氏の勤王と尚文(文をたっとぶ、文教)の余沢(めぐみ)を教授の中心に据えていました。紫陽にとって、この両師匠の学問的影響は非常に大きく、歴代の渋江塾による「菊池文教」そのものが「古学」と「菊池氏顕彰」の色彩が濃厚となった理由はここにありました。


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