とっておきの 熊本・菊池の歴史アラカルト(17)
『菊池の偉人・賢人伝』⑧-渋江龍淵
堤 克彦(熊本郷土史譚研究所所長・文学博士)
渋江松石には、前妻との間に長子龍淵と次子勝真(公充) 龍淵渋江先生乃墓
後妻との間に三子涒灘と四子素がいた。松石が家業の神事で留守にする時には、龍淵・勝真・涒灘の三人が父松石の「星聚堂」の代見をしていた。勝真が最も神事に精通し、渋江氏の家業「天地元水神社」の神職を継ぎ、龍淵・涒灘は学問の道を選んだ。
渋江松石が72歳で死去すると、龍淵はその門弟たちを引き継ぎ、文化十二(1815)年には「銀月亭」を開塾、嘉永五(1852)年までの38年間も続いた。
山口泰平編著『肥後・渋江氏伝家の文教』や木下韡村の「渋江龍淵先生墓碣銘」によれば、龍淵(1778~1852、孟吉・安宅・公隆)は、幼くして「才質」があり、経書を修学し、文章を作るのが上手であった。また龍淵は、蘐園・堀川二家の「古学」の流れを汲む祖父紫陽・父松石の所謂「菊池古学」の学意を「庭訓」(渋江家の教訓)として堅守した
後に自らも「時習館」の助教らの塾に入門しながら、郷里では「銀月亭」の塾主であった。また藩命により「菊池郡文芸指南役」として、経書や書道などの子弟教育をしながら、「家業」(菊池古学)を変えるのを潔しとせず、また渋江家本来の「天地元水神社」の神職も辞めなかった。
藩庁の「町在」によれば、龍淵は「根元精直」の性格で、心を用いての教導により、門人も「自然と帰服」し増加した。また心懸けがよく、「故実」は昔の儀式・法令・作法・服飾などの十二礼を相伝し、「天文」の造詣は深く、「剣術」も稽古した。
龍淵は、肥後藩ばかりでなく、他邦(天草・嶋原・筑後・柳川)でも大勢の門弟を世話し、また藩庁からは菊池稽古場にて講釈も申し付けられた。天保十四(1843)年の「町在」によれば、長崎代官高木作右衛門元締の上野伸右衛門からの依頼もあり、数年間島原・天草で子弟の教育を指南している。例えば文化八(1811)年から二年間は嶋原15人(温泉山一条院僧侶・役人・大庄屋・庄屋・別当・医生など)、さらに文化十(1813)年から三年間は、天草大矢野上村で11人(医生・庄屋など)、柳川の12人(藩士・僧侶)にも折に触れて「指南」した。
また弟の涒灘(治部之助)が、文化十四(1817)年七月から十一月までの五ケ月間、豊後表の「配札」(天地元水神社の守札配り)のために、天草富岡での「指南」ができなかった時は、その涒灘門弟30人を菊池の「詰所」で引き受けて「指南」していた。
そんな龍淵は、天草・島原から帰郷後の文化十二(1815)年に、本格的な私塾「銀月亭」を隈府で開塾した。河原手永では26人(隈府町の豪商・僧侶、城野弥三次〔静軒〕がいた)、深川手永では5人(すべて僧侶)、それ以外に32人(隈府町・輪足・雪野村、西寺・稗方村)が通塾し、毎日か隔日の「素読」「習書」の指導をした。また益城・玉名・宇土などから5人が「逗留」、また門人でない深川・河原手永の5人(在御家人・医師の倅)も「会読」に出席していた。このように門人の数は益々増えて、龍淵は「漸時之不得暇」(しばらくも暇なし)の盛況であった。
このような龍淵の学問教導の努力や地方風教・文化振興の功労に対して、藩庁は文政四(1821)年三月に「菊池郡寺社御家人中指南方」を申し付け、月三度の「会読」と「講釈」をさせ、翌五年六月に「金子百疋」を下賜されている。文政七(1824)年より天保五(1834)年の10年間は「竹迫会所」に通勤、近所の「在宅御郡中御家人」を「誘掖」した。また島原・柳川の「逗留生」凡そ300人の門人への「会読・講釈・詩文・習書等之教導」に対して、天保元(1830)年九月に「作御紋麻上下壱具」や「年賜米若干苞」などの褒賞を受けている。(無断転載禁止)
HP用
渋江松石の子供たちの私塾(1) 渋江龍淵の「銀月亭」
はじめに-
渋江松石には、前妻との間に長子龍淵と次子勝真(公充)、後妻との間に三子涒灘と四子素が生まれた。松石が家業の神事で留守にする時には、龍淵・勝真・涒灘の三人が父松石の「星聚堂」の代見を務めていました。そのうち次男の勝真が最も神事に精通していたこともあって、渋江氏の家業「天地元水神社」の神職を継ぐことになった。
つぎの表は渋江松石の長子龍淵の「銀月亭」に関するものである。
つぎの表は渋江松石の長子龍淵の「銀月亭」に関するものである。
塾主 私塾名 所在地 期間 教科
渋江龍淵 銀月亭 隈府町 文化十二(1815)年~ 経書・書道
(松石長子) 嘉永五(1852)年(38年間)
門人数 年齢 報酬
不 詳 制限なし 寄贈
一、渋江松石の子供たちの私塾
「永青文庫」所収の文政四(1821)年十月の「町在」には、まず渋江家について「先祖以来元水神守護の家筋」で、「家伝の祈祷・修法」により「御上下(参勤交代)の船中安全の祈祷」や「国中の水元開き・作馬病風退除などの祈祷」を「自勘」(自弁)で執行してきたとある。
祖父貞之丞(紫陽)の代から「習書・読書を授け、諸生も多く」なり、父宇内(松石)の代になって、「別けて門人も相増し、尚更出精」していたが、文化十一(1814)年に松石が病死と記した後、長子龍淵(安宅)について、つぎのように記している。
1、渋江龍淵(孟吉・安宅・公隆、1778~1852 享年75歳)
前の「町在」・木下業廣(韡村)撰の「渋江龍淵先生墓碣銘」によれば、龍淵(安宅)は幼くして「才質」があり、経書を修学し、よく文辞を作るのが上手であった。
また龍淵は、蘐園・堀川二家の学意の流れを汲む祖父紫陽・父松石の「菊池古学」の学意を「庭訓」(渋江家の教訓)として堅守した。寛政五(1793)年に藩校「時習館」の助教大城太十郎について学問に精進したが、「家業」(菊池古学)を変えるのを潔しとせず、また「天地元水神社」の神職も辞めなかった。
また前掲の「町在」によれば、龍淵は、父松石の死後はその門弟をそのまま引き継いでいる。性格は「根元精直」で心を用いて教導したので、門人も「自然と帰服」し増加した。その他、龍淵は心懸けがよく、「故実」は十二礼を相伝、「天文」にも造詣が深く、「剣術」の稽古も怠らなかった。
・龍淵の「指南」地域(菊池および天草・嶋原・筑後・柳川)
龍淵は弟勝真がとても神事に精通し、家業の神職を継いだので、自らは「儒学」に力を注ぐことができた。そこで龍淵は「肥後藩ばかりでなく他邦でも、大勢の門弟の世話いたし、且つ菊池稽古場にて講釈も申し付けられ」た。「他邦」とは「天草・嶋原・筑後・柳川」のことで、この地域には龍淵の門弟が数多くいた。
天保十四(1843)年の「町在」によれば、長崎代官高木作右衛門元締の上野伸右衛門の依頼で、数年間島原・天草での子弟教育を実施するために「追々罷り越し」て指南している。具体的には文化八(1811)年からの二年間(1年半)は嶋原で15人(温泉山一条院僧侶・役人・大庄屋・庄屋・別当・医生など)、文化十(1813)年から三年間(三年半)は、天草大矢野上村で11人(医生・庄屋など)がそれぞれ「指南」を受け、また柳川の12人(藩士・僧侶)にも「有折(折に触れて)の指南」を実施している。
また弟涒灘(治部之助)が、文化十四(1817)年七月から十一月までの五ケ月間、豊後表の「配札」(天地元水神社の守札配り)のために、天草富岡での「指南」ができなかった時は、その涒灘門弟30人を菊池の「詰所」で引き受けて「指南」するなそしている。
二、「銀月亭」の開塾
そんな龍淵は、天草・島原から帰郷後の文化十二(1815)年には、菊池にも「詰所」や「文武の稽古場」を設けて教導し始め、その後、龍淵が本格的な私塾「銀月亭」を隈府に開塾した。河原手永では26人(隈府町の豪商・僧侶たちで城野弥三次もいる)、深川手永では5人(すべて僧侶)、それ以外に32人(隈府町・輪足・雪野村、西寺・稗方村)が通塾し、毎日か隔日の「素読」「習書」の指導をした。
また益城・玉名・宇土などから5人が「逗留」、また門人でない深川・河原手永の5人(在御家人・医師の倅)も「会読」に出席していた。このように多くの門人に経書や書道を教授し、その後藩命により「郡文学指南」となる。
弟涒灘(治部之助)が、天草富岡で「指南」ができなかった時期は、前述の通りその門弟30人を菊池の「詰所」で引き受けて「指南」、ところがその九月に隈府町の大火で、龍淵や弟勝真の家が類焼、龍淵宅に同居していた「大勢の門人」は近辺の塾に引き移った。その後も門人の数は益々増えて、龍淵は「漸時之不得暇」(しばらくも暇なし)なほどの盛況であった。
このような龍淵の学問教導の努力や地方風教・文化振興の功労に対して、藩庁は文政四(1821)年三月に「菊池郡寺社御家人中指南方」を申し付けられ、月三度の「会読」と「講釈」を行い、翌五年六月に「金子百疋」を下賜されている。文政七(1824)年より天保五(1834)年の10年間は「竹迫会所」に通勤、近所の「在宅御郡中御家人」を「誘掖」した。また島原・柳川の「逗留生」凡そ300人の門人への「会読・講釈・詩文・習書等之教導」に対して、天保元(1830)年九月に「作御紋麻上下壱具」を下賜され、「年賜米若干苞」などの褒賞を受けている。
三、人となりと学意
・郷学の益 木下韡村撰の「渋江龍淵先生墓碣銘」(原漢文)には、この時期龍淵の「銀月亭」ばかりでなく、松石門弟の桑満伯順(藩主侍医)や高宮南陽(篤、外員侍医)らも開塾したため、「郷学一時の盛」即ち菊池郷では一度に学問が盛んとなった。これまで百年来、良家の子弟も学問せずに、賭博や遊興にうつつを抜かしていた「郷俗」を改善する契機となったと記す。
・人となり 龍淵に関する資料は少ないとしながら、山口泰平は漢詩集『龍淵遺稿』一巻から、龍淵の人となりを、「その性質・風格を検するに、温醇の裏に飄逸(世間に煩わされない)の風あり、内謙虚(控え目)にして、外高踏(地位・名誉に執着しない)の気概を示す、細故に拘泥するなくして大義を誤らず、王公に屈下するを好まずして、草莽の間に適居し、之を以て会心の得意境と観じてゐたものゝやうである」と記しているが、韡村撰の「渋江龍淵先生墓碑銘」に書かれた「淡雅高簡」「澹然自足」「笑傲磊々」の性格や、子弟教育は「諄々教導」「未だ嘗て厭倦せず」云々と一致する。
また前の「町在」には、龍淵は「元来篤実・無慾之生質」であったため、かなり「暮方難渋」であったが、「教導方之氣障り」は少しも見えなかった。そんな龍淵は、藩庁からは地方風教・文化振興の功労に対して褒賞されている。
四、政治的識見
・「政治論」 渋江家で直接政治に奔走したのは、明治期に県会議員から国会議員となった渋江公寧だけであったが、渋江氏の中には、政治に関していろいろな意見を持っていた。山口泰平によれば、龍淵の遺稿中の「対策」には、「政治は必ず徳より発し、仁に達しなければならぬ。(中略)報償利得より出発する政治は、たとへ大勲労の人といへども許さるべきではない」との主張を見出している。
・「道千乗之国章義」 龍淵は、「道千乗之国章義」の中で、藩が農民に「土功」(土木工事)を命じ動員する場合、「民力を重んぜずして、農務を妨ぐれば、則ち民肯て耕穫せずして、必ず怨心を生ぜん。民の怨心は国の危亡に係る」と記している。
さらにこれらを避けるには、「土功」(土木工事)は「民力を重じ」、「動員は農閑期に行うこと」が肝心であるとし、そうすれば農民は「五穀」の生産に励み、「食料不足もなく」、「役人への反発」もないとの見解は、十分政治家として識見を備えていた証である。
五、菊池氏の賛美 渋江氏歴代の菊池氏賛美の理由は、「尽忠」(南朝一辺倒)と「興学」にあった。その点龍淵も同様であった。山口泰平の紹介した漢詩を同氏の試読で紹介しておきたい。
○筑水懐古探韻 「菊池昔奉ず征西王 少弐鋒を捽いて徒悉く傷つく 四百の星霜(400年後)英気を餘し、今に于いて筑水怒浪蒼し……」-これは菊池武光が懐良親王を擁して、少弐頼尚を撃破した「筑後川の戦い」を詠じた七言絶句(詩)である。
○暮春登鳳儀山有感 「鳳儀山上白雲中 聞くならく開師梵宮(寺院)を鎖す 畫静かにして鳴禽幽谷に響き 春深うして緑草長風に偃す 苔は毀砌(きせい、壊わされた階段の意か)を封じて昔人去り 花は荒叢に散じて古殿空し 惟見る逕庭松柏の樹 猶矯色をかけて幾年同じ……」-菊池武時が大智禅師を開山とし、武重・武士が尊崇した「鳳儀山聖護寺」の様子を詠じた七言律詩である。
○亀甲者菊池氏之時聖廟学校之跡也 「威西海に加はって風雲を捲く 正に親王を擁して六軍を撫す 禮楽時に攻む杏樹の下 絃歌声は湧く峡川のほとり 星移り孔廟今何くにかある 人去り哀猿豈聞くに耐へんや 偶々丹楓原上に向って望めば 秋天墜葉自ら紛々たり……」-菊池重朝が桂庵玄樹を招いた「孔子堂」」の盛衰を詠じた七言律詩である。
六、龍淵のエピソード
龍淵の晩年四十五歳の時、愛妾との間に、文政五(1822)年十月五日、男の子周蔵が生まれた。しかし七歳で夭折、すでに埋葬も済ませた。龍淵は病気になると、同族に「私が死んだら必ず大きな棺を作り、夭折した周蔵を入れて、一緒に埋葬するように」と命じ、同族は遺言通りにしたという。その龍淵は嘉永五(1852)年五月十七日、七十五歳で死去、愛児周蔵の死後すでに30年を経っていた。墓は輪足山の琴平神社横の渋江家墓地(写真)にある。
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