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[2023年3月号] 歴史アラカルト


 熊本・菊池の歴史アラカルト (18)

『菊池の偉人・賢人伝』⑨-渋江涒灘

堤 克彦(熊本郷土史譚研究所所長・文学博士)


渋江松石の長子が龍淵で、三男が渋江涒灘(1788~1846)である。涒灘は、享和三(1803)年に十六歳の時、大城太十郎の門弟となり学問に出精した。その後文化十一(1814)年に「梅花書屋」を隈府町で開塾したが、文化十三(1816)年に長崎代官高木作右衛門元締上野伸右衛門の依頼に受け、天領天草(長崎奉行管轄)の富岡で、文政三(1820)年までの5年間、代官・陣屋関係者、大庄屋・年寄・庄屋の倅、通詞・僧侶・神官、医師・医生など、多数の門弟に素読・会読などを「指南」した。

         横井小楠筆漢詩

涒灘は文政三年二月に帰郷し、翌四年八月十一日に隈府「横町」の本宅から「正観寺村」の別宅への転居、それを機に「釣月亭」(ちょうげつてい)と改め、弘化三(1846)年の閉塾までの33年間、菊池文教のセンター的存在であった。

渋江公周氏所蔵『菊池渋江家門人名簿』によると、天保十二(1841)年から弘化二(1845)年までの5年間の門人総数は510人、その内訳は士席衆47人、在御家人など有姓157人、無姓40人、僧侶112人、旅生154人を数えた。

 門人には、志方小左衛門・中原宇左衛門・小代平之允、今坂勝平次の息子や親族、右田藤左衛門・貞喜とその息子ら、木下丑三郎・宇太郎(韡村)・徳太郎(助之)・小太郎(梅里)の兄弟、城野弥三次(静軒)、高山謙太(蘭痴)、大津の大久保宜春(大津郷文芸指南方、熊本師範学校教員)・吉川原南(御目見医師、学区取締、大原義塾創立)・紫藤寛治(吉川原南の次弟、第一回衆議院議員)らがいた。

 涒灘の「釣月亭」は藩内外で有名で交遊者も多かった。藩内では辛島塩井(時習館教授)・木下韡村・町野玄潜(松月)・町野鳳陽・葉室黄華・白木希魚(士直・柏軒)、横井小楠など、藩外では柳川藩の牧園茅山(猪蔵・進士)・彦根藩士大岡宏(士栗笙洌)・遠州浜松侍医馬場敬(子簡)などがいた。

 写真の漢詩は、横井小楠が天保六(1835)年の秋、時習館居寮生たち7人で菊池吟行した際に「釣月亭」を訪ねた時に詠じた自筆の「七言絶句」である。下に試訳を紹介しておきたい。

訪釣月亭呈主人渋江先生 釣月亭(私塾)を訪ね主人渋江(涒灘)先生に呈す

遠沂黄花一水塘 遠沂(えんき、遠く遡る)すれば黄花(菊花)と一水(菊池川)の塘(堤防)

乱山囲作白雲郷 乱山(高低の山々)に囲まれた白雲の郷(神仙のいる所)を作す

未外釣月窺清韻 未だ釣月の外にあり清韻(清らかで風流なさま)を窺えず

門外先薫桂子香 門の外先ず薫るは桂子(桂の実)の香

  横井存(時存、小楠) 拝具

 この漢詩の大意は、熊本城下を立ち、遠く遡って来ると、菊の花が咲き乱れ、菊池川の堤防に出た。鞍岳や八方岳などの山々が連なり、それらに囲まれた菊池郷は神仙(涒灘をさすか)の住む特別な土地であった。まだ涒灘先生の「釣月亭」には入っていないので、亭内の清らかで風流な様子は窺い知ることはできない。しかし「釣月亭」の門外に佇んだだけで、桂子(桂の実)のよい香りが漂って薫ってくる。

 松石の頃は「古学」「朱子学」「陽明学」「国学」の学統間での対立や深刻な学意論争は見当たらなかった。涒灘の頃にはさらに従来の「古学」に固執する傾向は減少、「古学」から「朱子学」へ変わる門人たちもいた。

たとえば松石門人桑満伯順(古学)の門弟木下宇太郎(韡村)は、藩校「時習館」の訓導を目指し、「朱子学」への学意変更を桑道に願い出ているし、他の門人たちの中にも「古学」から「朱子学」「国学」「亀井南冥学」に変更する者がいた。これが本来の「文教菊池」の姿であったのかもしれない。

HP用

渋江松石の三子渋江涒灘と私塾「釣月亭」


はじめに

 渋江涒灘(とんだん、徳翼・忠多・治部之助・公豪・公寛・公雲、1788~1846 享年59歳)は、 文政四(1821)年十月の「町在」によれば、涒灘は、享和三(1803)年に十六歳の時に大城太十郎の門弟になり、学問に出精し大いに進んだ。

その後文化十一(1814)年に「梅花書屋」を隈府町で開塾したが、文化十三(1816)年に長崎代官高木作右衛門元締上野伸右衛門の依頼に受け、天領天草(長崎奉行管轄)の富岡で、文政三(1820)年までの5年間、「彼地へ相滞り、多人数の門弟教導仕」っていた。

涒灘が天草富岡で素読・会読などを「指南」した門人59人は天草全島各地の出身者で、身分的には代官・陣屋関係者・大庄屋・年寄・庄屋の倅、通詞・僧侶・神官やそれらの弟子、医師・医生などであった。

涒灘が文化十四(1817)年七月から十一月までの五ケ月間、豊後表の「配札」(天地元水神社の守護札配り)のために天草富岡を留守にした時、龍淵が隈府町の「銀月亭」で涒灘門弟30人を引き受けるなど、非常に兄弟仲がよかった。


一、天草富岡での「指南」

1、天草富岡での「指南」依頼とその条件

前掲の「町在」には、涒灘(治部之助)が間部忠右衛門の御用(家業)で天草に出張った際、長崎代官高木作右衛門元締上野伸右衛門に「指南」を頼まれている。その理由を紹介しておきたい。

【原文】

当郡遠境と申し、殊更生質軽薄なる土地柄ニ付、諸子弟遊学等申付有之候得共、元来疱瘡を逃れ候所ニ而、種々故障を申、志厚之もの無之、此度長崎御奉行衆ニも相届、風儀取直の為、冨岡えとゝめ取立候筈ニ而、諸生之世話相頼申候由、御代官衆勝手向逼迫ニ而、御扶持被下儀出来兼、依者郡中配札被差許、毎月朔ニ由、於御陣屋詩会有之候由、其外御取扱学寮振合等之次第(以下略)

【大意】

天草郡は辺境の地で、特に性格は思慮篤実でない土地柄であり、多くの子弟に遊学を勧誘するが、本来疱瘡を避けてきた者たちなので、いろいろ理由を付けて本気で学問をしたいという者がいない。そこで長崎奉行に相談して、風儀を立て直すために、涒灘を富岡に滞留させ、毎月朔日に陣屋で詩会を教導し、管轄の学寮での諸生の世話を依頼した。但し代官所も経済的に逼迫し、扶持を出せない代わり、天草郡中で「天地元水神社」のお札を配ることは許した。

 涒灘が天草富岡に滞留し、諸生たちの「指南」を引き受けた理由は何だったのか。長崎奉行の条件は勝手不如意に付き「扶持」(手当)なしであったが、その代わりに天草郡中での「天地元水神社」の「配札」を許可した。「天地元水神社」の神職は松石次男の勝真が引き継いでいたが、涒灘はその勝真を手助けし、天草郡中に「守護札」を配布できる権利が許可された。即ち涒灘にとっても一石二鳥の好条件であった。


2、天草の富岡塾主は誰か

 山口泰平は前に紹介した「町在」の存在を知らなかったが、長子龍淵に比べ、三子涒灘に関する資料を多く収集し、天草富岡で開塾した塾主は長子龍淵とされていた従来の説について、その不確実性を指摘し、つぎのように訂正している。

「渋江氏先祖附」には、①本家の神事家業は、文化十二年(1815)三月十日に、次子勝真(公充)が相続し、②龍淵が「文化十三(1816)年九月より天草富岡へ罷越、文政三(1820)年二月迄滞留」し、③「文政四年八月十一日、正観寺村へ別宅仕」り「引移」ったと記されていた。

山口はこの附記の内容は龍淵ではなく涒灘であったといい、同時に富岡を拠点に天草全島に「天地元水神」の守護札を配布したことも明らかにした。

特に②について、龍淵の墓碑銘の「於是漫遊島原天艸之間数年、所至為父兄見請教子弟」(是に於いて島原天草の間を漫遊すること数年、至る所父兄の見を為し子弟に教えを請う)云々と、涒灘の墓碑銘の「天草郡富岡公廳上野某(伸右衛門)招請君、延以為師、建学舎、教導諭示郡邑諸吏以下農商之子弟」(天草郡富岡公庁〔陣屋〕の上野某〔伸右衛門〕)君を招請し、延ぶるに以て師と為し、学舎を建て、郡邑〔村〕の諸吏以下農商の子弟を教導・諭示す)云々の記述を比較し、後者が『天草廻村袖日記』と一致していること、また公文書にある「治部之助」は涒灘の俗名であることなどから、「天草塾主」は涒灘であったとした。これは前掲の「町在」の内容からも十分証明できる。

  序ながら、天保七(1836)年十一月から翌八年二月までの涒灘の『天草郡行袖中日記』(『肥後・渋江氏伝家の文教』所収)は、当時の天草全島の様子を知る上で非常に好資料である。また同時期の頼山陽の富岡訪問はなかったことを解明する重要な資料でもあるので一読されたい。

写真1「釣月亭」付近から望む




二、涒灘の私塾は「菊池文教」交流館

1、「釣月亭」の開塾

 涒灘は父松石が七十二歳で死去した文化十一(1814)年五月六日直後、兄龍淵より一年早く私塾「梅花書屋」を開塾したが、前述のように「文化十三年より文政三年まで、天草富岡に相滞り」、天草の諸生を「指南」した。

しかし「持病差起り、相断」って、文政三(1820)年二月に帰郷し、翌四年まで「梅花書屋」で子弟教育を行い、菊池では河原手永11人(在御家人・医師らの倅)、深川手永6人(在御家人・惣庄屋・医師らの倅・僧侶)、他に8人などの門人を「指南」している。

その傍ら、兄龍淵を助け、また「兄同様他邦ニ罷り、余計の門弟教導」していたが、文政四年八月十一日には「横町」の本宅から「正観寺村別宅」に転居、そこに私塾「釣月亭」を開塾、当時の「菊池文教」の中心的存在となった。

 前掲の『肥後・渋江氏伝家の文教』によれば、涒灘遺稿集の『釣月詩録』には、藩内では辛島塩井・木下韡村・町野玄潜(松月)・町野鳳陽・葉室黄華・白木希魚(士直・柏軒)など、また藩外では柳川藩の牧園茅山(猪蔵・進士)・彦根藩士大岡宏(士栗笙洌)・遠州浜松侍医馬場敬(子簡)など全110編の漢詩が所収されている。

 木下韡村は『釣月亭記』の冒頭で、「隈府の東に卜居(正観寺村別宅)し、其の楣(ひさし)に顔(面)して、釣月と曰ふ」と記し、その居宅の佇まいについて、すごく質素で、楼からの遠山(鞍岳)の眺望はよく、部屋の拵えは静かで奥ゆかしいとしている。

 そしてその場所は、隈府町の喧噪を背に、眼前には広々とした沃地(亘〔わたる〕一帯の田園)が広がり、すぐそばには菊池川の清流を引いた井手(築地井手)があり、雨や風のたびごとに、その趣を変え、また石橋を映した水面の下には小魚の群れが泳ぎ回っている様子を描いている。

 この情景描写の地域について、『東正観寺区今昔ものがたり』の編集責任者菊川大東氏は、東正観寺区内に、渋江晩香が私塾「遜志堂」(亘村390番地)を建てた「桐の木」より隈府側で、現在の「菊池グランドホテル」か「国際菊池ホテル笹乃家」の付近ではないかと推測されている。(写真1)

 その「釣月亭」界隈の清閑さは、話に聞く中国の「濠水・濮水」(まま、「濠梁・濮水」か。いずれも中国の川名。「濠濮間の想い」は閑静な境地で、世俗から離れて静かに暮らす心境。荘子が濠梁で遊漁を見て楽しみ、濮水で釣魚をして楚王の招きに応じなった故事)に劣らないと称賛する。

「釣月亭」主人の涒灘は、「読書筆硯の餘、身心の倦怠を感じては、前川に短艇を浮べて釣竿を垂れ、水鳥魚鱗と共に楽を同じうし、夜も更けて月冴え、風おだやかに波静かなるに至って、酔いに載せて琴(琵琶琴か)を携え、酒壺を倒して、朗々と得意の詩文を打ち吟ずる」と記す。

 こんな日常的な境遇から、涒灘の漢詩は生まれたといい、また「釣月亭」の名は、宋人の漢詩の一節「一潭明月釣無痕」(一潭の明月、釣れど痕無し〔深く水をたたえた渕に映る清く澄みわたった名月に浮き糸を投げ、何度釣り上げても、波紋で少しくずれてもすぐにもとの名月になってしまう〕)からとったものと思われるが、誠にふさわしい命名だと言っている。

 上記の人々をはじめ多くの者が競って、「釣月亭」を訪問したのには、このような脱世俗的な環境に自然と吸い寄せられたのであろう。涒灘は「自ら隠れて世に出でず、利達を権門に求めるやうな俗心」は一切なかったが、訪問者がやってくると、何時しか「常にその牛耳を執り、文壇に覇を称」える存在となっていた。その訪問者の一人に横井小楠がいた。


2、渋江涒灘と横井小楠 写真2横井小楠の漢詩

写真2の漢詩は「開運なんでも鑑定団」に出品された横井小楠の七言絶句である。鑑定師増田孝氏の読みでは未解読(□□)が二字あったので、私の試読を(  )に示した。この漢詩は小楠が渋江涒灘の私塾「釣月亭」を訪問した時のもので、年代は不詳だが、季節は秋頃(天保六〔1835〕年の秋と思われる)に、時習館居寮生たち7人で菊池吟行をした時の作と思われる。

訪釣月亭□□(呈主)人渋江先生 釣月亭(私塾)を訪ね主人渋江(涒灘)先生に呈す

遠沂黄花一水塘 遠沂(えんき、遠く遡る)すれば黄花(菊花)と一水(菊池川)の塘(堤防)

乱山囲作白雲郷 乱山(高低の山々)に囲まれ白雲の郷(天帝・神仙のいるという所)を作す

未外釣月窺清韻 未だ釣月の外にあり清韻(清らかで風流なさま)を窺えず

門外先薫桂子香 門の外先ず薫るは桂子(桂の実)の香

  横井存(時存、小楠) 拝具

 この大意は、熊本城下を立ち、遠く遡って来ると、菊の花が咲き乱れ、菊池川の堤防に出た。鞍岳や八方岳などの山々が連なり、それらに囲まれた郷は神仙(涒灘をさすか)の住む特別な土地柄であった。まだ涒灘先生の「釣月亭」の中には入っていないので、亭内の清らかで風流な様子は窺い知ることはできない。しかし「釣月亭」の門外に佇んだだけで、まず桂子(桂の実)のよい香りが漂って薫ってくるようではないかというものであった。

 おそらく最後の「桂子の香」は、小楠の脳裏に浮かんだ「桂子飄香」(けいしひょうこう、桂の実がよい匂いを漂わせる)という言葉からヒントを得たと思われる。少々深読みかもしれないが、桂(木犀)は中国では「月の中にある木」との伝説があり、「釣月亭」の中にある木と解し、その木をさらに涒灘に置き換え、「涒灘先生から漂い出でる菊池文教の香り」、または「飄」(つむじかぜ)そのままに「涒灘先生から渦巻き吹き起こる菊池文教の香り」の意と解しているが如何。


三、涒灘の交友・門人たち 

1、『天草郡行袖中日記』に見る交友関係

天保七(1836)年十一月から翌八年二月までの涒灘の『天草郡行袖中日記』の抜粋から、交友関係の一端を知ることができるので、原文のまま引用し、人名の初見に下線を付した。( )は引用者註。

一、天保七(1836)年十一月九日 早朝近藤(英助・淡泉)助教を尋、寛話。頼置候福連木三山の作出来居申候。辛島(才蔵・塩井)教授尋、寛話。明夕木下宇太郎(韡村)并弟素(涒灘弟)、同道いたし参候様案内也。夫より居寮高山謙太(蘭痴)へ用事有之尋、池松大八(当時時習館生)に逢、寛話。午比新道へ帰る。晝食後桑満伯順(負郭)尋る。同人孫御目見相済候間、一樽携候間、酒饗及暮前、雨降候故傘借る。法念寺尋、暮而町野(玄粛・鳳陽)へ行。酒饗、泊る。

一、十日 時々雨、早朝町野を辞、木下宇太郎尋。今晩辛島を訪候約致、夫より菊池御郡代林利衛門古京町に居候諸木園の隣也。寛話。次に合志縣尹國武弾助(惣庄屋)を尋る。寛話。午前新道に帰着。大城太郎衛門尋。先生弔議相述、手前返りには一樽携候て祝候約也。新道に帰、玄粛(町野)来。酒饗及薄暮。素同道宇太郎へ行、日暮申候。

 小堀次郎助・横井平四郎(小楠)出會。予宇太郎并弟は直に辛島へ行。塩屋町にて酒二升調、先生へ持参仕候。六ツ半過行きつき申候。先生厳然として相待被居候。酒饗懇也。吸物・坪出申候。不怪被強候て、何れも及大酌、四鼓半にも到申候。

茶漬仕舞引取、予は木下方に一宿仕候。辛島先生今茲八十六歳にて、始終欠申(まま、欠伸)の様子も無、懇成挨拶、誠に感心仕候。當代多喜次始終出居被申候。井手平馬・牧杢之進へも案内被申遣候由に候へども、支にて見え不申候。   (『肥後・渋江氏伝家の文教』168~169頁)


 すでに紹介した『釣月詩録』(一冊)には、藩内では辛島塩井・木下韡村・町野玄潜(松月)・町野鳳陽・葉室黄華・白木希魚(士直・柏軒)など、また藩外では柳川藩の牧園茅山(猪蔵・進士)・彦根藩士大岡宏(士栗笙洌)・遠州浜松侍医馬場敬(子簡)など110首の漢詩が所収されていた。また日田咸宜園の広瀬淡窓とも交流があったと言われる。

『愛吾廬文稿』(三冊)には、涒灘が親友の町野鳳陽などを詠じ、逆に時習館訓導愛敬元武らが涒灘の人となりを詠じた漢詩189首が所収されていて、漢詩には山口泰平の適宜な解説があり、涒灘の人となりを彷彿させるに十分である。(『肥後・渋江氏伝家の文教』188~192頁)。


2、『菊池渋江家門人名簿』

 『菊池郡誌』には「釣月亭」以前の「梅花書屋」の門人数は男700人と記す。また渋江公周氏所蔵の『菊池渋江家門人名簿』によれば、「釣月亭」時代の天保十二(1841)年から弘化二(1845)年までの5年間の門人総数は約510人で、その内訳は士席衆47人、在御家人など有姓157人、無姓40人、僧侶112人、旅生154人であった。

 門人の中には、志方小左衛門・中原宇左衛門・小代平之允、今坂勝平次の息子や親族、右田藤左衛門・同貞喜とその息子たち、木下宇太郎(韡村)・丑三郎・小太郎(梅里)・徳太郎(助之)の兄弟、城野弥三次(静軒)、高山謙太(蘭痴)らがいた。

山口は『肥後・渋江氏伝家の文教』で、涒灘の高弟として、大久保宜春(格次、大津町出身、後に福岡の亀井塾生、大津郷文芸指南方、熊本師範学校教員など)・吉川原南(菅根、水村出身、後に再春館生、御目見医師、学区取締、原水小学校教諭、大原義塾創立)・紫藤寛治(多仲、吉川原南の次弟、武術教導、鳥羽伏見参戦、熊本鎮台所属、第一回衆議院議員)をあげている。


四、涒灘の功績

 渋江涒灘の功績は、文政四(1821)年八月十一日に「横町」の本宅から「正観寺村別宅」に転居、そこに私塾「釣月亭」を開塾し、当時の「菊池文教」交流センター的役割を果していた。桑満負郭撰「渋江涒灘墓碑銘」を主に、『肥後・渋江氏伝家の文教』で補完・訂正しながら、その後の経緯を見ていくことにしたい。

・文化九(1812)年 藩主細川斉樹の「文芸上覧」で、経書を講じ詩文を作った。

・文政三(1820)年 天草富岡を辞し、菊池隈府に帰郷後、私塾を畳もうとしたが、「塾生を以て亦廃業」させなかったので、「梅花書屋」を継続した。五月には隈府町御用宅での「文芸講師会頭」に命じられ、経書・会読を督し、年々「金子百疋」を下賜された。

・文政四(1821)年 「篤学を敬業し教諭懇接の為」、藩庁から方金(方形の金貨)一個を賜う。

・文政八(1825)年 合志郡宰(郡代)に、大津御客屋での毎月の「大津縣齋」を命じられ、講席(集会所の講義)を開く。郷の子弟を闔(とびら、書籍を開く)き、皆文芸を学習せしむ。年々「心付二両」を賜う。

・文政十一(1828)年 藩庁より大津の諸子弟の教導や「所居之地」(居住地)の人に裨益(ひえき、役に立つ)があった故に、「郡宰属直触」(郡代直触)に昇進した。また老母への孝養、没後の追善により「扁金三両」(白銀三両)を賜う。

・天保二(1831)年 「郡宰」は毎月「縣齋」で、本来の説文・秇業(げいぎょう、芸業、学術・技芸のわざ)を「攻講」(積極的な講義)させ、「慫慂」(しゅうよう、傍からの誘い)怠らなかった。

・天保五(1834)年 藩庁より永年の多数門人の教導・精励によって「一領一疋」に昇進した。

・天保十(1839)年 藩庁より毎歳「禀米十苞」を賜うが、門弟6人から辛島才蔵・近藤英助宛に提示された口上書には、学業多年の間「匪懈匪怠」(少しも怠らす)、門人を「教誨」(きょうかい、教えさとす)し、敦厖(とんぼう、人情が手厚く誠実である)・純固(純真を堅持すの意か)、詩文を授け、普く届かざる無き故」であった。

・弘化二(1845)年 頓と(突然)「痱証」(中風)に罹り、「薬餌」(投薬)も験(しるし)無し。

・弘化三(1846)年 七月三十一日、遂に「易簀」(死去)、享年五十九歳。墓は輪足山の渋江家墓地。


おわりに

 以上が渋江涒灘の私塾「釣月亭」の功績である。特に涒灘の「釣月亭」は数多くの肥後藩内外の学者・文化人などの有識者たちを否応なしに引き付けた独特の「菊池文教」の交流館であり、大きな役割を果した。




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