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[2023年7月号] 歴史アラカルト「菊池の偉人・賢人伝」


とっておきの                           2023年7月号

 熊本・菊池の歴史アラカルト (20)


『菊池の偉人・賢人伝』⑪-渋江晩香


堤 克彦(熊本郷土史譚研究所所長・文学博士)

写真1 渋江晩香の肖像画(わいふ一番館所蔵)

 渋江晩香(1832~1914、徳三郎・子訥・公木)は涒灘の三子で、「禮譲」「温厚篤実」の人であった。晩香は木下韡村の弟梅里が今村(現・菊池市今村)に開塾した「古耕精舎」で、弘化四(1847)年より嘉永三(1850)年まで3年間、漢学を学んでいる。

 当時、時習館訓導だった木下韡村は、嘉永六(1853)年、熊本城下京町台柳川町に、藩の官塾と私塾「木下塾」(「韡村塾」)を併設が許可されていた。

晩香は開塾以前の「木下塾」に嘉永三(1850)年、18歳で入塾、文久三(1863)年までの13年間在塾した。同門には「木門の四天王」の竹添進一郎・井上毅・木村弦雄・古荘嘉門や兼坂淳次郎・栃原助之進・池松豊記らがいた。

菊池神社は、明治三(1870)年、隈府町の守山城跡に創設され、晩香は同五年に菊池神社司掌、翌六年には祠官、明治四十一(1908)年に76歳で宮司になっている。晩香は元田永孚に先立ち、明治天皇の侍講候補になっていたとのエピソードがある。

 また「大日本帝国憲法」の制定に関わった井上毅は、「木下塾」の先輩であった晩香に頼み、当時菊池神社の祭神とされた十三代武重の自筆・血判のある起請文「よりあひしゆのなひたんの事」(寄合衆の内談の事)を、深夜に禊決済をして内覧を許されたという。

その晩香は傍ら私塾「遜志堂」(遜志は「へりくだった気持ち」の意)を営んでいた。塾舎も、明治四年に袈裟尾村の旧深川会所跡、同六年には菊池神社の城山、同十一年には正観寺村守山(守山塾)に移転、塾生の増加もあって、同十六(1883)年には亘(輪足)村桐木の築地井手(桐水)脇に移転した。また「桐潭学舎」とも称した。

 明治政府は、明治十二(1879)年九月に「学制」を廃止し、文部省は「教育令」を制定し、学校制度を整備した。「遜志堂」は、同十八(1885)年に熊本県令富岡敬明に「私立学校設置伺」を提出、教育の基本方針の「三綱領」として「一、忠信礼譲ヲ本トシ廉恥ヲ重ンズル事 一、倫理ヲ正シ忠孝ヲ励ム事 一、知識ヲ拡メ事業ヲ主トスル事」を掲げた。

因みに「私立中学済々黌」(現・県立済々黌高校)の「三綱領」は、「一、倫理ヲ正シ大義ヲ明ニス 一、廉恥ヲ重ジ元気ヲ振フ 一、知識ヲ磨キ文明ヲ進ム」であった。また水次村(現・菊池市七城町)の医者石渕万寿の「楽只学舎」の「三綱領」は「一、忠孝ヲ勵ミ節義ヲ重ス 一、倫理ヲ正シ敬譲ヲ主トス 一、知識ヲ擴メ事業ヲ立ツ」であった。この三者の「三綱領」の酷似には、どんな時代的背景と理由があったのだろうか、今後の解明が不可欠である。この渋江晩香に関して、かなり詳しい説明が必要である。しかしこの会報でその紙面がないので、HPに掲載することにした。是非一読してもらいたい。


【解説】

渋江晩香

はじめに

渋江晩香(徳三郎・子訥・公木、1832~1914 享年82歳)について、山口泰平著『肥後・渋江氏伝家の文教』(本文中のページ数はこの著のもの)と『菊池郡誌』所収の清浦奎吾撰「渋江晩香先生頌徳碑銘」などによりより詳しく紹介することにしたい。


一、渋江晩香の「木下塾」在塾時代

・「木下塾」(「韡村塾」)

 公木(以下「晩香」とす)は、涒灘の三子として生まれ、次兄公穀とは2歳違いで、幼少から「家学」(「菊池古学」)を教育され、ひときわ抜きん出ていたが、後述するように後に「朱子学」に変わっている。

明治十八(1885)年、熊本県令富岡敬明に提出した「私立学校設置伺」の履歴書には、「一、弘化四(1847)年より嘉永三(1850)年まで木下真弘(梅里)へ従ひ漢学修業、仝年十二月より文久三(1863)年まで木下真太郎(韡村)へ従ひ仝上」と記されている。

 晩香は、木下韡村の弟梅里が、弘化二(1845)年に今村で開塾した「古耕精舎」で3年間、漢学を学び、多大な影響を受け、恩師梅里の風格・学殖を称揚した漢詩を作っている。

肥後藩庁は、当時時習館教授が欠員であったため、まったく異例であったが、訓導の韡村に教授のみに許されていた「官塾」の経営を依頼した。韡村は、嘉永六(1853)年、熊本城下京町台柳川町に官塾・私塾併設の「木下塾」(「韡村塾」)を開塾することになった。


・同門の塾生たち

 晩香はこの「木下塾」に、嘉永三(1850)年、十八歳で入塾、以後13年の間「朱子学」を学び、「研精尤勤」により俄然頭角を顕わした。また兄公穀と同様に、剣術・躰術・砲術・居合の稽古にも励んだ。その間、晩香は兄弟子として、後に「木門の四天王」と称された竹添進一郎(安政三〔1856〕年十五歳で入塾)・井上毅(翌四〔1857〕年十五歳で入塾)・木村弦雄・古荘嘉門やその他兼坂淳次郎・栃原助之進・池松豊記らと一緒に机を並べていた。

その晩香は、終生「自分の今日あるのは木下先生のお蔭だ。自分は先生の教に守られている」と言い、晩年には韡村の揮毫「積善之家有餘慶」(積善の家餘慶有り)の一幅を掲げ、常に愛唱していたといわれる。「木下塾」の塾約(規則)や模様は、『肥後・渋江氏伝家の文教』(228~229頁)に詳述されているので参照されたい。


二、「木下塾」退塾後の晩香

・「大津郷文芸指南役」

 晩香は、退塾後の安政三(1856)年五月より文久三(1863)年の7年間、肥後藩家老小笠原備前邸で文芸教導役を勤め、元治元(1864)年九月より明治三(1870)年まで、藩命により「大津郷文芸指南役」を務め、子弟の教育に多大なる影響を与えた。特に大津の「大矢野塾」・「渋江塾」(「紫翠山房」)・原水の「吉川塾」の三塾は、詩文会などの交流を通して、互いに切磋琢磨していた。


・「菊池郡文芸教導職」

 明治三(1870)年、晩香は所謂「肥後の維新」と言われた藩政改革により勤務免除となり、翌四(1871)年七月には「菊池郡文芸教導職」に就任すると、「四方の士争いて其の門に集う」という有様であった。また講義の教え通りに、自ら実践して見せる「至誠」は、多くの門弟に多大な影響を与えた。晩香は同六(1873)年の「遜志堂」の創建まで2年間勤務した。


・人となり

晩香の人となりは「礼譲」「温厚篤実」で「春霞」のような性格であり、「洒落」が上手で、「光風霽月」(雨上がりの清らかな月)に似て、容姿は「閑雅」(しとやかで優雅なさま)であった。(写真1)

また「監事」(教育の監督指導者の意か)として、「疾言」(早口)でも「遽色」(あわてた顔つき)でもないので、子弟は相親しみ、隠し事も犯すこともなく、ゆったりと「不迫の楽」(逼迫し苦しまない安心した楽しみ)でいた。

 後掲の「頌徳碑」によれば、晩香は家庭への思いやりは深く実に細やかであった。特に母への孝行は、「母夫人(母君の意か)は晩年老耄(耄碌)し、挙げて缺常(平常を欠く)に止る。尤も酒を嗜み、酔えば輙(すなわ)ち起きて舞い始めると、息子の晩香に謡わしむ。晩香は詩を吟じて、楽しみ之れに和し、膝下(ひざもと、すぐ近くでの意か)に承りて、老母の婉愉(穏やかで楽しいさま)の情を歓ぶ」、その様子に「観る者たちは涙を流し、聴く者は襟を正した」と言う。


・「菊池神社」の創建と晩香の神官就任 

明治維新後、新政府による幕末期・明治維新の功労者たちを祭る「護国神社」創設の動きが具体化すると、いち早くこれを察知・対応したのが長岡(細川)護美であった。護美は、地元候補に加藤清正と菊池氏三代(武時・武重・武光)をあげ、熊本市と菊池郡の人民に、その準備や神社の設置場所の選定などを、つぎのように指示した。


左京亮様御直書寫  菊池氏祠宇御造営之儀

有功ヲ顕シ、有罪ヲ罰スル者、経國之大綱ニして、國事ニ勲労有之者、屹度表シ顕ス事無キトキ者、士氣勧励之基ヒヲ失シ可申處、皇政維新之時ニ膺(あたっ)テ、豊太閤(豊臣秀吉)・楠廷尉(楠木正成)之如キ、朝廷既ニ神号ヲ追謚セラレ、数百年晦没之祠宇、新タニ御造為被為在候事ニ付、菊池氏誠忠之如キハ、屹度御表顕被遊度、今度菊池郡菊池氏城(守山城)迹ニ於テ、相應之場所ヲ選ヒ、祠宇御造営被為在候間、御國中有志之者、寄附致度段申出候得者、御考許ニ可相成旨、一統江布告可有

二月                   (「永青文庫」所収) 

                                                                               


その結果、菊池氏三代と加藤清正は神格化され、菊池神社は明治三(1870))年四月に隈府町守山城跡に、加藤神社は明治四(1871)年七月に熊本城内の錦山に相次いで創設された。

晩香は同五(1872)年一月に菊池神社司掌、翌六(1873)年十月には祠官に昇格、同十一(1878)年二月には「別格官幣社」の禰宜となり、そして明治四十一(1908)年一月には七十六歳で宮司になっている。渋江家歴代の菊池氏顕彰は、菊池神社の創建によって一応その目的が達成され、その後の晩香・公寧は、菊池一族の顕彰と広報に全力を尽くしていくことになる。

詳しくは拙論「菊池南朝史観の形成と『菊池精神』の戦時利用」(熊本近代史研究会編『第六師団と軍都熊本』熊本出版文化会館 2011年所収)を参照されたい。


三、「遜志堂」開塾 

晩香が「菊池神社」の祠官に昇格した明治六(1873)年に「遜志堂」を開塾した。晩香四十一歳、長子公寧十六歳の時であった。当時の塾生たちは、晩香を「大先生」、公寧を「小先生」と呼んでいた。その教育は漢書中心で、『論語』は別格な扱いであった。教授方法や塾生数については、『肥後・渋江氏伝家の文教』(275~300頁)に詳述されている。 


塾主  渋江晩香(涒灘三子)  私塾名  遜志堂   所在地  袈裟尾村旧会所跡

    渋江公寧(晩香長子)               ⇒ 菊池神社城山

     後に衆議院議員(国権党)                 ⇒正観寺村守山                                     

                              ⇒亘村桐木 

 期間 明治六年(1873年)  教科 予科(2ケ年)    門人数  1500余  

    ~同三十九年(1906年)   修身・歴史・文学・習字・体操   生徒数 60~100名

    (34年間)        本科(4ケ年)

                  予科教科に、地理・物理・法律・

                  代数・幾何・三角法を追加                                  

 年齢 制限なし   報酬 寄贈 月謝 なし   


 ・「遜志堂」の由来 

山口泰平は、「遜志堂」の由来について、 写真2 「遜志堂」跡(鳥居右側一帯)

晩香自身の説明はないが、祖父松石の「遜志務時敏」(遜志は時敏に務むる)、即ち『書経』(『尚書』)説命下の「惟学遜志、務時敏、厥修乃来」(惟れ遜志を学び、時敏に務めれば、厥の修乃ち来たれり)に由来するとしている。

因みに「遜志」は「謙遜した控え目な心」または「へりくだった気持ち」、「時敏」は「時宜を得た」の意で、このような学問姿勢こそが「修己」の達成・成就に繋がると教えていた。

また晩香には長子公寧・次子公雄・三子三一(入江氏を継ぐ、陸軍少将)がいたが、末子三一の塾名由来の問いに、晩香は「苟くも朱子学を学んだものは、謙遜・礼譲の徳を体得して居らねばならぬ。それでこそ人間の奥ゆかしさがある。漢書が読めるなどゝ言って、生意気になっては相成らぬ。それが我が家に伝へて来た曽祖紫陽先生以来の精神である」と答えていた。


・塾舎の変遷

「遜志堂」最初の塾舎は、明治四(1871)年七月に袈裟尾村の旧会所跡、同六(1873)年には菊池神社の城山、明治十一(1878)年七月一日に正観寺村守山(守山塾)に移転(総費用100円)して開塾した。しかし塾生が130名にもなり、再び手狭になったために、同十六(1883)年一月七日に、亘村桐木(亘村390番地)の築地井手(桐水)脇に移転、一名「桐潭学舎」と称した。(写真2)その後も塾生は増加の一途をたどり、同二十(1887)年一月には、新塾舎一棟をその場所に落成した。


(4)私立学校「遜志堂」と「教育勅語」

・私立学校「遜志堂」の三綱領

明治政府は、明治十二(1879)年九月に「学制」を廃止し、文部省は「教育令」を制定し、学校制度を整備した。明治十八(1885)年八月二十日付で、熊本県令富岡敬明に提出した「私立学校設置伺」の履歴書には、渋江公木(晩香)の署名で申請している。

その「遜志堂」の「私立学校設置伺」には、教育方針・学科・課程・教授法・教科書・試業(試験)・入学条件(学力不問)・授業・休日・退学・塾則・生徒心得・罰則・授業料・職員構成・敷地・経費等々が記されていた。

教育方針では「漢学による日本主義教育」で、修身(小学・孟子・論語・書経、他に「幼学綱要」)と歴史(日本外史・日本政記・十八史略・左伝)を重視した。「三綱領」は「一、忠信礼譲ヲ本トシ廉恥ヲ重ンズル事 一、倫理ヲ正シ忠孝ヲ励ム事 一、知識ヲ拡メ事業ヲ主トスル事」であった。

この晩香が掲げた私立学校「遜志堂」の「三綱領」と酷似した「三綱領」が、他にも佐々友房の「私立中学済々黌」や水次村(現・菊池市七城町水次)の医者石渕万寿の「楽只学舎」があり、「遜志堂」独自の「三綱領」ではなった。つぎの表を参照されたい。


一番早いのは明治六(1873)年八月の「楽只学舎」、ついで明治十五(1882)年二月の私立中学「済々黌」、そして明治十八(1885)年の私立学校「遜志堂」の「三綱領」の順で、これらの酷似ぶりはどう考えればよいのだろうか。但し「三綱領」を比較しやすいように、もとの順番を並べ替えている。

時系列的に考えると、石渕万寿の「楽只学舎」の「三綱領」を、佐々友房や渋江晩香がそれぞれの私立学校の「三綱領」として採用した可能性がある。ただ現在では「私立中学済々黌」の後身である「県立済々黌高校」の「三綱領」となっていて、殊更その特異性が強調されているが、今後明治という時代的背景を考慮した上、これら「三綱領」の酷似性の解明が必要である。


・晩香の「大義名分」

晩香は「名分の関する所は親・故(親戚や幼なじみ)と雖も仮借(手心を加える)する所なし」と評されるほど、「大義名分」に関しては厳格であった。例えば「西南戦争」の時、薩摩軍が菊池で戦乱を始めようとし、菊池では「蜚語・浮説流行し、物論騒然」の状況になっていた。晩香はその最中に「大義を唱へ名分を明にし、其方向を知らしむ」と言って、門人たちが薩摩軍に加担・参戦することを制止するために奔走したという。

また晩香は、政府軍と薩摩軍の戦場となった隈府町で、両軍の砲弾が飛び交う最中も、菊池神社に奉仕、飛弾で神社の老松が折られても、神殿に籠り続けていた。そして最早菊池神社が危ないという時、晩香は夜中秘かに祭神の御神体を背負って逃れ、河原の四宮神社に安置し、薩摩軍が退去するまでの二週間籠り続けたという。(水野尚一談)

明治十四(1881)年「北海道開拓使官有物払下げ事件」(薩摩藩出身の北海道開拓使長官黒田清隆が、同藩出身の政商五代友厚に官有物1490万円分を38.7万円で無利子・30年賦での払い下げが暴露された事件、薩長藩閥政府の腐敗)の真相が露呈し、「自由民権運動」が再燃した。

窮地に陥った明治政府は、「自由民権運動」の「薩長藩閥」批判を交わすために、先手を打ち、10年後の明治二十三(1890)年に「国会開設する詔」を発した。「自由民権運動」は帝国議会の開催に向け、一斉に「政党」の結成にかかった。

即ち「明治十四年政論(明治十四〔1881〕年の政変)勃興するや、急躁過激(自由民権運動)の徒は、路氏(まま、蘆騒〔ルウソウ〕、J.J.ルソーのことか)の説を唱え、自由民権を主張し、狂奔・叫囂(きょうきゅう、騒然)底止(終止)なし」の状況であった。

この状況下に、晩香は「極力其(政党結成)不可を諭し、国體の擁護・国粋の保存を唱へ、欽定憲法を主張」した。「愛国主義」を主張する津田静一らが、「皇室を翼戴し立憲の政体を賛立し、以て国権を拡張す」を政治綱領にした「紫溟会」(国権党)を結成すると、晩香は私立学校「遜志堂」の教育方針と合致するとして、長子公寧と共に城北の同志を率いて、「政党活動」に参加している。


・「遜志堂」の教育方針と「教育勅語」

明治二十三(1890)年十月三十日に、「教育に関する勅語」(教育勅語)が公布された。晩香は私立学校「遜志堂」の「漢学による日本主義教育」による「忠信・礼譲・忠孝・廉恥を以て塾教育の根本綱領とする」教育方針に合致するとして大歓迎している。

その晩香は「書感」と題して、「学海波瀾地を捲きて狂う 風潮の偏り恐しく綱常を破る 幸い詔勅に逢い天下従う 万古仰ぎ見る日月の光」(原漢詩、421頁上)、即ち明治になって混乱した学問の弊害が、「教育勅語」の公布によって、日本全体を静め、古来仰ぎ見てきた太陽や月と同じ光がもどってきたと詠じている。


(5)晩香の秘話二題

・明治天皇の「侍講」「候補

 山口泰平は『肥後・渋江氏伝家の文教』の中で、晩香門弟の江崎四郎談として、「晩香先生の礼儀に厚く、謙遜至極なことは著名な事実であるが、その抱負は頗る高かった。明治四年かの侍講として起用され、永年君側に奉仕された元田永孚氏の抜擢に先だち、晩香先生もその候補者の一人としての命があった。その時先生が人に語ったのは、『帝王の師たるべき人材は他に其の人があるであらう。しかし母に事(つか)へて孝なるの一點に至っては、自分は他に譲らぬ』ということがあった。以て先生の志して居られたことが那辺にあったかを窺ふに足ると思うが、ともかくさういふ都合で、侍講候補を辞退された。まったく世に知られぬ隠れた話である」と紹介している。


・井上毅と「菊池家憲」

また山口は門弟佐々尚善談として、「大日本帝国憲法」の作成に関与した井上毅が、「木下塾」の先輩で菊池神社禰宜であった晩香に、当時祭神とされた菊池武重直筆で血判のある「よりあひしゆのなひたんの事」(菊池家憲)の内覧を依頼した時の様子が秘話として紹介している。

 時期的には不詳であるが、井上毅が態々東京から来て、家憲を実見したいと申し入れてきた。晩香は事甚だ重大であると痛感して、先ず神慮を奉伺することになった。式場には井上毅も臨席した。晩香は潔齋の上、法式に従って、夜三更(深夜)の神殿には燈明の外照明なく、深閑とした中で、「神慮奉伺」を行なった。やがて晩香は神慮に叶い、「神霊に少時の御退去」を願った後、家憲を神座から下して、極めて荘厳鄭重に井上毅に渡した。

井上毅は恭敬・恐懼(恐縮)、両手に受けて、燈明の下でしばらく之を凝視し、之を熟読確認した。事済んで後に晩香は「あの時ばかりは全く神威に打たれ、身体がすくんで仕方がなかった」と述懐したという。「大日本帝国憲法」発布直後に、井上毅は晩香に「憲法書類二冊」を送っていた。

写真3 渋江晩香先生頌徳碑(城山公園)

(6)晩香顕彰

 遠近の子弟で晩香の薫陶を受けた者は都合「一千五百餘人」、そ

のうち「立身修道の者」は数えきれないほど輩出した。晩香は漢詩を善くし、その詩格(詩歌の品格の意か)は端的(抜群)に高調子で、少しも「浮華」(うわべは華やかで実体のないさま)の気が見られなかった。その上ますます「名教」(儒教をさすが、ここでは人として守るべき道を明らかにし教えること)を盛んに教導した。

 そんな晩香は、永年の子弟教育の功労者として、明治二十五(1892)年五月十五日、六十歳の時、大日本教育会から銀製の「教育功績章」を授与され、翌二十六(1893)年九月三日には門弟・有志たちによる「還暦寿筵」、また同二十九(1896)年三月一日、六十四歳の時には、熊本県知事より「桐章木杯」三重一組を贈呈、さらに同三十七(1904)年七月、七十二歳の時、明治天皇から「勅定藍綬褒章」を授与、没年には「叙従六位」を叙された。

明治四十三(1910)年一月には、門弟・有志たちにより城山公園内に、富田一二原文・清浦奎吾撰の「渋江晩香先生頌徳碑」が建立、3年以上後の大正二(1913)年十月に竣工した。(写真3)その経緯は、前掲の『肥後・渋江氏伝家の文教』に詳述され、「頌徳碑」の内容が紹介されている。また晩香の墓は輪足山の渋江家墓地内に建立されている。(写真4)


写真4 晩香渋江先生之墓

おわりにかえて

漢詩からわかる晩香の交友関係 

 山口泰平は、晩香が明治四十(1907)年二月に結成された「塗鴉会」(とあ、下手な文字、悪筆の文字。素人詩歌会の意か)の初代会長に迎えられ、菊池地方の詩歌(漢詩・和歌)は、ますます隆盛となった。

晩香は「菊池氏・菊城桜花」では菊池武時・武士らを詠じ、「追慕の古賢・忠雄」には和気清麻呂・菅原道真・楠木正成・加藤清正・細川幽斎・高山正之らに関する漢詩が所収されている。

また「贈詩」では、楠本硯水・有吉平十郎・高山蘭痴・高野迎山・塘林虎五郎・前田正名・井上圓了・佐々克堂・湯地丈雄・竹崎竹苞(新次郎)・中島傳九郎・藤野君山・熊本繁吉・迫源次郎、菊池では佐藤定喜・片岡家善・武藤山里・中島弥七郎・平野三郎・片山直人・衛藤寛治などの漢詩(「追悼詩」の人物名は省略)が所収され、晩香の交友関係や人脈の広さを物語っている。

山口がこれらの漢詩について人物のエピソードを交え、事績の紹介と丁寧で適切な解説をしているので、容易に各漢詩の鑑賞できる。また「晩香先生の和歌」には、菊池神社祠掌以来の数多の和歌を集録、さらに晩香に関する遺聞や親族の話、門下生の座談会などが収録されている。











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