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[2023年8月号] 花房飛行場の特攻隊の出征遺書

 菊池には戦時中「菊池飛行場(花房飛行場)」があり、搭乗員訓練とともに、終戦間際には、特攻中継基地でもあった。

戦後78年を迎えるにあたり、「菊池の戦争の記憶」のひとつを紹介したい。

                                 文責 坂本 博 


「花房飛行場の特攻隊の出征遺書」



花房飛行場から飛び立った特攻隊員「寺田浩一」さん!

 故郷に残した「おばあちゃんへの最後の手紙」

 本年3月、一本の電話から始まった。聞くと終活中に「戦没教師の手紙」(米田利昭著・平成元年7月15日発行)」が見つかったので、差し上げたい」とのことであった。

早速、その本を頂き、菊池のことが書かれている「隈府のことども」を読んだ。そこには特攻隊員として訓練に励む、寺田浩一さん(大正10年3月5日生まれ・25才・栃木県出身・昭和20年4月28日没)が、故郷に残したおばあちゃんへの出撃前日に書いた「最後の手紙」であった。

それによると、日昼は花房飛行場で訓練! 夜は隈府の「菊栄館本店」(迎町・今は取り壊されてないが、偶然、当時の建物の写真発見)に宿泊している。その間、周辺住民との交流が克明に記載されている。以下、紙面の都合上、原文の一部を紹介します。

           「隈府のことども」

 おばあちゃん。九州の北の端に芦屋と言う飛行場があります。芦屋から熊本の近くの菊池と言ふ飛行場に来たのは4月16日でした。菊池はあの有名な菊池武光公の生まれなさった土地です。

そしてその晩から、この知覧に来る昨日まで10日間、菊池武光公の墓のある隈府といふ町の菊栄旅館の本店に泊って居ました。昼は部隊へ行って様子を聞き、整備を急いで居ましたが、夜はその隈府の旅館でのんびりしました。

 おばあちゃん、その、隈府で一番の思い出は、その町の中の迎町と言う所の山田愛子さんと言うお母さんのことです。山田さんの他にも4人居りました。五人が五人共、本当にいい人達ばかりで、隈府で大変お世話になりました。(中略)

 愛子おばあさんの姪にあたる方も若くきれいな人で幼稚園の先生をして居られる人で、我々に童謡の踊りを見してくれました。あとの二人は下川千代さん、みつ子さんの母娘で、娘さんはやはり妙齢の御婦人です。五人共、皆やさしい人達で、他人の我々を我が子のやうに面倒見てくれました。

 御馳走を毎日のやうに作って来てくれたり、遊びに来いと言ってくれたり。その御気持が、ほんとうに涙の出る程嬉しかったのです。

 おばあちゃん、25日の晩は、とても大さわぎでした。隈府の最後の晩だと言うので、

ビールをがぶがぶ飲みました。私の隊で一番の酒のみで、一人で他の十一人分飲みました。(中略)

そのさわぎの真最中に、山田さん達五人が来られて、面くらいました。が御免蒙って、さわぎ続けました。そして、酔った勢で、山田さんの所へ泊めて下さいと頼んでしまひました。

 全く常識外れのことですが、山田さんのやさしさに無性に甘えて見たくなったのです。長沢もいっしょに泊まると言って二人で真赤な顔で行きました。

 おばあちゃん、俺の家にはないような柔らかい布団で、のりのついたさっぱりした、白がすりの浴衣に着かへて、戦死なされた大尉殿の写真のある部屋に二人して横になりました。あんな布団で、あんなさっぱりした寝着は生まれて始めてでした。

 翌朝、眼をさました時は、さすがにてれくさい気がしました。二人で、かしこまって朝食まで招ばれてしまひました。そして卵の土産までもらって隈府の町を後にしました。

(中略)

 もう呑気なことは書いてゐられなくなりました。雲一つない満月が、東の空高く輝く作戦室の前で、二十時、出撃命令が下されました。

 明日の夕日の沈むと同時に、敵艦になぐり込むことになりました。今までいろいろ打合せや整理で、もう今晩も十一時過ぎです。歌の文句通り、”今宵一夜が祖国の名残り”です。(中略)

 出撃に間がありませんので、又之と言って何も言う遺すこともありません。

ご機嫌ようお暮らし下さいませ。では参ります。さようなら。 

(注)

写真左端に写る「菊栄館本店」(昭和20年頃)

1, 突撃兵士が宿泊した隈府迎町の料亭「菊栄館・本店」(写真「左の瓦葺の家」・微かに看板の文字が見える・現中原松月堂斜め前・)

2, 文中、迎町の「山田愛子さんは、旧オアシスの祖母さんです。下川千代さんは、旧“こんにゃく屋”さんの祖母さんです。」


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