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[2024年1月号]  歴史アラカルト 「菊池の偉人・賢人伝」

とっておきの熊本・菊池の歴史アラカルト(22)           2024年1月号

                         

『菊池の偉人・賢人伝』⑬-木下韡村(真太郎)

 

                   堤 克彦(熊本郷土史譚研究所所長・文学博士)


木下家の遠祖は、菊池氏時代の刀工延寿国村といわれ、今村(現・菊池市今)の豪農であった。韡村の父衛門は隈府町の豪商宗善十郎娘そめ(宗米)と結婚、長男真太郎(業広、宇太郎、韡村)・二男丑三郎(熊太郎)・三男真弘(さねひろ、小太郎、梅里)・四男助之(徳太郎)・春・寿与(寿茂)が生まれ、次男丑三郎が家督を相続し、長男真太郎(韡村)と三男小太郎(梅里)は学業に専念できた。真太郎の号「韡村」は出身地「今村」(「韡磨(いま)村」)によるものと言われる。

 その木下韡村(1805~67)は、幼少から向学心旺盛で、初め桑満伯順(正観寺村、侍医・再春館訓導・私塾「水石亭」)や渋江龍淵(渋江松石長男、隈府町・私塾「銀月亭」)に学び、その後時習館助教の大城多十郎(文卿、藩校「時習館」助教)の家に寄宿して、学問に励み、時習館の居寮生となった。

 韡村は、文政九(1826)年、22歳の時、学業優秀により、肥後藩主細川斉護(なりもり)から「木下」姓と帯刀(士分格・御中小姓)を許され、天保六(1835)年には藩主の伴読(侍講)を務め、後には世子慶前(よしちか)の侍講も任せられた。

 同年藩主斉護の参勤交代に随行、初めて江戸に出府で、幕府学事総取締で「昌平坂学問所」(昌平黌)教授の佐藤一斎や肥後藩出身の松崎慊堂に師事した。また学友には当代一流の学者安井息軒や塩谷宕陰らがいた。安井息軒は、韡村の墓碑銘に「自分は多くの友人と出会ったが、塩谷毅(宕陰)と木下子勤(韡村)は特別であった」と記す。

 時習館教授の第五代近藤英助(淡泉)が嘉永五(1852)年没、通説ではその後韡村が「時習館教授」になったとする。しかし文久元(1861)年九月に第六代片山喜三郎(豊嶼)が「教授」就任するまでの約10年間は「教授」不在のままであった。

 実際の韡村の経歴は、嘉永二(1849)年十月45歳で「時習館」の「訓導助勤当分」、嘉永四(1851)年三月「訓導本役」、安政六〔1859〕年十一月には「教授局詰」の「録事」となった。藩庁はその時点で、韡村に「時習館」教授にのみ許された「家塾」(「官塾」)の世話を命じた。おそらくこれが通説の勘違いの理由かもしれない。その後文久二(1862)年、58歳の時に幕府から昌平黌教授の要請があったが辞退、慶応元(1865)年の61歳の時、再び「時習館訓導」となっている。

 韡村自身は、弘化二(1845)年に今村で私塾を開き、また嘉永二(1849)年から慶応二(1866)年までの18年間、内坪井や京町柳川丁で「韡村塾」(木下塾)を開塾していたので、「官塾」の世話と「韡村塾」を兼務していた。安政元(1854)年頃の韡村は「官塾」の諸公子(藩士子弟)にも講義を行ない、両塾とも大盛況で、「木門三〇〇〇人」と言われた。門人には明治期に活躍した井上毅・木村弦雄・竹添進一郎・古荘嘉門(「木門の四天王」)らがいた。

 その韡村の教授法は、「先にしてこれを唱え、その出を一途にせしむるを吾は欲せず。吾れは則ち後よりこれを驅(かけ)て、その所を任すなり」というもので、有名な教育は「馬引キニハアラズ、牛追イタルベシ」であった。

 即ち「馬引キ」のようにむりやり引っ張って勉強させるのではなく、門弟たちが自主的な自覚を持って勉強するのを、「牛追イ」のように、後ろから静かに見守っていく教え方であった。韡村が最も注意したのは、門弟たちが「荊棘」(けいし、いばら)に陥らないようにすることだけであった。

 

                木下韡村の事歴

 

はじめに

 木下韡村について、安井衡(息軒)撰「木下子勤墓碑銘」(以後「墓碑銘」とす)と韡村門弟・竹添井々(進一郎)と井上毅が協力した「木下(韡村)先生行状」(以後「行状」とす)を参考(いずれも『菊池郡誌』所収)に見ていくことにしたい。

安井衡は「墓碑銘」撰の中で、「子勤の弟某(木下梅里)、甫(はじめ)て孤信の書(一通の信書か)を遣わし至るに及ぶ、行状及び年譜を附し、其の墓に銘を請う」とあり、竹添井々(進一郎)と井上毅の「木下(韡村)先生行状」を参考にして、撰を書いたものであった。

 

1、木下韡村の盟友・安井衡(息軒)と塩谷毅(宕陰)

 韡村は、天保六(1835)年の三十一歳の時、藩主の伴読を務めて、初めて江戸に出府、幕府学事総取締で「昌平坂学問所」(昌平黌)の佐藤一斎や松崎慊堂に師事、在江戸中には当代一流の安井衡(息軒)や塩谷世弘(宕陰)らと交遊、彼らは一番の親友(盟友)として韡村の名を上げていた。

 安井衡(息軒)は「墓碑銘」の初めに、「自分は多くの友人と出会ったが、塩谷毅(宕陰)と木下子勤(韡村)は特別であった」と書き、三人の年齢は違っていたが、お互いに盟友であった。安井衡(息軒)も塩谷毅(宕陰)も当時第一級の学者人なので、少し説明しておきたい。

 安井衡(1799~1876、息軒)は日向出身、飫肥藩校助教、松崎慊堂(1771~1844、昌平坂学問所次席、肥後藩出身)に師事、後に昌平黌教授、卓越した考証学者として『管子纂詁』・『左伝輯釈』・『論語集説』などの著書があり、また海防・軍備政策に関しては『海防私議』などがある。

 また塩谷毅(1808~1867、宕陰)も松崎慊堂に師事、浜松藩主水野忠邦に仕官し、後に幕府儒官となっている。アヘン戦争の情報を集めた『阿芙蓉彙聞』や海防の急を講じた『籌海私議』、その他に中国の魏源編著『海国図志』を翻刻、箕作阮甫との共著に「翻栞海国図志」(プロシア・ロシア・イギリス編)がある。

 

2、「木門の四天王」

 「木門の四天王」と称された門弟は、竹添進一郎と井上毅木村弦雄・古荘嘉門である。竹添進一郎(1843~1917、井々、光鴻漸卿)は、後に大蔵省出仕、天津領事・北京公使館書記官・在韓弁理公使を歴任、井上毅(1843~1895、梧陰)は「大日本帝国憲法」の起草に関与、また元田永孚とともに「教育勅語」を制定している。

 木村弦雄(1866~1945)は、肥後勤王党、大楽源太郎隠蔽事件・広沢真臣参議暗殺事件に関与、済々黌校長・九州学院創設に尽力し、古荘嘉門(1840~1915)は、大楽源太郎隠蔽事件・広沢真臣参議暗殺事件も関与、司法省出仕、大阪上等裁判所判事、「紫溟会」創設、第一高等学校長、国権党議員であった。

 

一、木下家の出自と系譜

 つぎの「菊池木下家系譜」は、前掲の安井衡(息軒)撰の「墓碑銘」・竹添進一郎の「行状」や島善高氏作成の「木下家譜年表」及び玉名市立歴史博物館資料集成第六集「木下家系譜」などを参考に作成した。但しこの系譜では「玉名伊倉の木下家」について省略した。詳しくは拙論「菊池・玉名の両木下家」(『歴史玉名』第25号 1996年5月刊)を参照されたい。

 1、菊池木下家の系譜

木下家の出自は菊池氏の家臣であったが、菊池氏滅亡後は「編戸」(民間人)となり、代々菊池の郷に居住していた。木下韡村・梅里兄弟の父木下衛門(伝左衛門)は、菊池郡河原手永今村(現・菊池市今村)の豪農木下恵助と菊池名家平山喜右衛門娘もや(茂弥)の長男として生まれた。

 父衛門(寸志・地士)の善行は菊池中に聞え、藩主からは弘化三(1846)年五月に褒賞されている。その衛門は隈府町の宗善十郎娘そめ(宗米)と結婚、長男業広(真太郎・韡村)・二男丑三郎(熊太郎)・三男真弘(小太郎・梅里)・四男助之(徳太郎)と春(ハル)・寿与(寿茂)が生まれた。

 木下家の家督は、天保十(1839)年四月に、二男丑三郎は「継目寸志二貫目」を追加し、父衛門の「地士」の士分格を継いだ。そこで、好学の志が強かった長男韡村(1805~67)と19歳違いの三男梅里(1823~97)は、二人とも学業に専念でき、「伯叔(兄弟)学者」となった。

 

2、木下韡村の家族

木下韡村は天保七(1836)年高橋弥四郎長伊津を娶り、三男二女をもうけた。竹添は「行状」の中で「始罪高橋氏先没、継娶吉村氏子」と「罪」・「娶」の文字で区別、「罪」は誤字・誤植とは考えられないので、あるいは「社会の規範・風俗・道徳などに反した過失」の意を含み、正式な婚姻ではなかったのではないか、不詳としておきたい。乞御教示。

 韡村と妻高橋伊津の長男は一太郎・二男謙次郎は夭折、三男宇十郎(後に信十郎、重三と改める)は生存したが、長女光子・二女冨士も夭折している。三男信十郎(重三)は、韡村の弟で木下家を相続した丑三郎の養子となった。妻伊津は弘化四(1847)年、二女冨士が夭折した直後に、産後の肥立ちが悪く死去、享年三十四歳。

 ついで韡村は、嘉永元(1848)年に吉村氏(多茂)を娶り、二男三女を儲けた。翌二(1849)年五月には三女津留(鶴子)が生まれ、嘉永四(1850)年一月、四男小吉郎、翌五(1851)年十二月二十八日五男哲三郎が生まれている。

四男小吉郎(後に広次、京都帝国大学初代総長)は、韡村の弟木下小太郎(真弘・梅里)の養子になり、三女津留(鶴子)は安藤氏に嫁し、後に井上毅の後妻になっている。その後生まれた四女辰子・五女信子は夭折。(前掲「菊池木下家系譜」参照)

 

二、木下韡村(1805~67 業広・宇太郎・真太郎、号は韡村・犀潭・子勤・澹翁、私諡は忠献先生)

1、木下韡村の事歴

木下宇太郎(以後韡村とす)は文化二(1805)年八月五日に生まれた。韡村は、幼少の頃から向学心旺盛で、藩士下河辺之敬の家に出入りした。韡村は幼少から「豪宕(ごうとう、豪放)」で、たびたび不遜な言葉を発していた。

 

①  師匠桑満伯順との出会い

 菊池在郷の「古学」者で儒医の桑満伯順(1768~1857、負郭)は、文化十一(1814)年、十歳の韡村を引き受け、句読の指導から儒学を教え、事によっては韡村の「不遜」の言動を直すために、厳しく叱責しながら教え導いている。

 ある時師匠伯順が戯れに、韡村へ「読書は何為(なんすれぞ)欲せん」(読み書きは何のために学びたいと思っているのか)と問うたところ、韡村は「小人にならざらんと欲するのみ」(徳の無い小者〔つまらない人間〕になりたくないだけ)と答えたという。

師匠桑満伯順は、このような志を持つ韡村にますます厳しい指導をした。韡村はその教導に「俯伏」(顔を下げ)・「流汗」(汗を流す)し、始めて「忠信」(誠実で正直なこと、忠実と信実)と「篤敬」(篤く人を敬う、人情に厚く慎み深いこと)の真意を知り、従来の「不遜」な態度を深く反省し、この二語を「持身の要」(終身の重要座右語)にした。韡村はこの師匠伯順との出会いから、延々40年も師弟関係が続くことになる。

 晩年の韡村は、自分が長い間「驕傲」(傲慢)・「不遜」と言われなかったのは「克治(こくぢ、克己)の功」で、これらは一日でできるものではなかったと言っている。その結果、世人は韡村の顔色の「和愉」(穏やかなさま)を見て、それは「性然」(生まれつきの性格)というほど、その容姿は「徐緩」(徐にゆっくりしたさま)であった。

 さらに韡村は未だ嘗て「疾言」(口早)も「遜色」(見劣り)もなく、「作字」(書体)は「端荘」(端正・荘厳なこと)であり、「蠅頭」(ようとう、細かい文字)の細書は皆「矩矱」(くわく、標準の枠内)から少しもはみ出たことはなかった。

 

②  「時習館」居寮生から藩主の「伴読」へ

 その後文政六(1823)年、韡村は藩校「時習館」助教の大城多十郎(文卿・壺梁)塾に寄宿、定期的に学問の教導を受けた。大城は「文(漢文)の文卿、詩(漢詩)の(高本)紫凕」と称された人物であった。その後、韡村は文政九(1826)年二十二歳の時、肥後藩主細川斉護より「学業の優長」により「称氏(木下姓)・帯雙刀」(苗字帯刀)を許されている。

 木下宇太郎が「韡村」の号を使用し始めた時期は定かではないが、この由来は出身地菊池郡の村名「今村」を「韡磨村」と書き、それから「韡村」に縮小したものといい、故郷への思いの強かった宇太郎は、出生地「今村」の村名を、そのまま自らの号にした。

 その韡村は、文政十(1827)年に「時習館」の居寮生に推挙され、天保六(1835)年三十一歳の時、居寮生の中から抜擢されて、第十二代藩主細川斉護(1804~1860)の「伴読」(侍講)になり、「中小姓」の士分に編入されている。

 韡村は父衛門(伝左衛門)に藩主の「伴読」になることを告げ相談したところ、父衛門は長い沈黙の末、「汝は十年命を縮めん」と言ったという。しかし韡村は「伴読」になる道を選び、天保六(1835)年四月、初めて藩主斉護の参勤交代に随行して江戸へ行った。

 それ以来、韡村は藩主斉護の随行と世子慶前(よしちか)の供を含め、嘉永元(1864)年まで都合7回も、国元と江戸を往復している。これは前述した安井衡(息軒)・塩谷毅(宕陰)との盟友関係の始まりでもあった。

 

③  世子慶前の早世

 この間の韡村の行動は、天保十一(1840)年九月から起筆された『韡村日記』によって詳しく知ることができる。例えば、藩主斉護の「伴読」(侍講)の傍ら、世子(慶前、よしちか、1825~1848、享年24歳)の進講も兼ねていたこと、天保十三(1842)年からは、世子(泰澍世子、十二代斉護の嗣子・慶前)の「伴読」に替わり、甚だ信任を得ていたことなどが記されている。

 韡村が世子への進講で最も重視したのは、「事に隨いて規(正すこと)を約(謹むこと)す」こと、即ち事態に応じ、その是非の判断は十分慎んで行なうことであった。さらに「徳色(徳性と色情)の消長(盛衰)」などについても、「至誠」(極めて誠実なこと)を以て教導していた。

 また韡村は「有事の大體(大要)」のことになると、相手が「造長官」の藩家老・長岡監物であっても一向に容赦せず、しばしば「夕より旦(あした、朝)に達す」ほどの大議論をしていた。世間では韡村が「持論の大厳(厳格すぎること)」を非常に「顧慮」(気にかける)していた。

 藩家老長岡監物は、韡村の「為人」(人となり)の余りもの「方正」(品行方正)を煙たがり、許すことが少なかったとか。嘗て監物が韡村の講義を聴き、途中で退席した時、韡村は嘆いて、「此の如き可(よ)きや」(こんなことでよいことがあろうか、よいはずがない)と言ったという。

 韡村が世子慶前の侍講を担当すること凡そ九年になり、世子の「令徳」(美徳)は目に見えて旺盛になっていた。しかしその世子(慶前)は嘉永元(1848)年四月十四日(実際の命日、公には二十三日卒去。享年二十四歳)に早世(死去)してしまった。韡村はその「悲惋」(ひわん、悲しみ嘆くさま)に「自らに勝てず」、とうとう「體氣」(体力と気力)も衰えて帰藩してしまった。

 

2、韡村、「訓導本役」と「教授局詰」を兼務

 韡村が「時習館」教授になったのかどうか。木野主計著『木下韡村の生涯とその魅力』(熊日新書 2013年)の中で、数ヶ所にわたって「木下韡村=時習館教授説」を展開、また付録「木下韡村年譜」でも、韡村は嘉永二(1879)年に「時習館訓導」、嘉永六(1853)年六月に「時習館教授を拝命」と記されているが。果たしてそうだったのであろうか。

 

①  『時習館教官名録・肥後人物志 完』

 武藤厳男著『時習館教官名録・肥後人物志 完』(熊本県立図書館所蔵、拙著『藩校「時習館」学入門』〔トライ出版、2014年〕に所収)によると、木下韡村は嘉永二(1849)年十月「時習館」の「訓導助勤当分」、嘉永四(1851)年三月「訓導本役」になり、その下に〈書込〉「教授局詰」(その年月は安政六〔1859〕年十一月)となっている。その「教授局」は教授・助教と録事(書記官)2人と使令(召使)1人で構成され、韡村は「録事」であった。

 また時習館教授の第五代近藤英助(淡泉)は嘉永五(1852)年没後、第六代片山喜三郎(豊嶼)は文久元(1861)年九月「教授」就任までの約10年間は「教授」不在の時期であったが、木下韡村が嘉永六(1853)年六月に「時習館教授」拝命の記述は見当たらない。

 

②  島善高氏作成「木下家譜年表」・「木下韡村の略歴」

 島善高氏作成の「木下家譜年表」によれば、嘉永六(1853)年六月、ちょうど浦賀にペリーが来航した月に、韡村は「教授家塾世話命じられ、隣家を賜う」(但し島善高氏の「木下韡村の略歴」では「両助教家塾世話を命じられ、隣宅地を賜う」とある)となっている。

 教授の「家塾」は「時習館」教授にのみ許された「官塾」のことであり、韡村はその「官塾」世話を命じられたため、私塾「韡村塾」(木下塾)の経営と兼務した。安政元(1854)年になると、「官塾」生の諸公子(藩士子弟)にも講義を行ない、両塾は大盛況であたかも「京師」(大都会)のようであり、所謂「木門三〇〇〇人」と言われている。

 これらの両塾を世話した韡村が、前述した「教授局詰」となったのは、安政六(1859)年十一月で、「稟米(ひんまい、給米)百石」(「御擬作百石」)を下賜されている。しかし韡村は万延元(1860)年二月に「依願教授局詰を辞め」ていますので、その期間はわずか4か月ほどであった。

 また島氏の前掲「木下韡村の略歴」によれば、韡村の事歴は「泰厳院様(斉護)御次勤六年、泰澍院様(世子慶前)御次勤九年、訓導当分三年、訓導本役十六年、都合三十二年、御奉公相勤候中、御品御銀等追々拝領仕候」となっていて、木野主計氏の「時習館教授」の文言は見当たらない。

 

3、晩年の韡村

 文久二(1862)年十月、三条実美らが幕府に「攘夷の勅旨」を伝えた。その翌十一月には幕議はその勅旨に従うことを決定、翌三(1863)年四月には幕府の「五月十日を攘夷期限」とする上奏した。これが五月十日に長州藩が下関海峡を航行中の米商船への攘夷決行に繋がって行った。

 

①  細川良之助(護美)に随行

 文久二年十一月には、韡村は細川良之助(護美)の上洛に随行したが、翌三年一月には病気のために帰藩している。韡村が「畿甸(きでん、京師)の靖(やす)らかならざる」と報告すると、塾生の公子(藩士子弟)たちは、競うように請願し、「起きて自ら従う」ことを決意した。

 文久三(1863)年春に再び上洛した韡村に、たまたま「幕府の命特(特命)の徴(召出し)」があった。しかし韡村は自らの出自が「編戸」(百姓)であること、肥後藩には「恩眷(おんけん、恩恵)」を感じていること、「臺命」(幕府の命令)が如何に厳格であっても、「敢當」(敢えて受諾するの意か)できないこと、そして病気を理由に辞退し、即刻に帰藩した。この際には、「時習館」の「訓導」も「病免」(病気で免除)されている。

 元治元(1864)年十一月、「第一次長州征伐」で長州が幕府に降伏した時、韡村は「小倉戦争」を指揮した細川良之助(護美)に随い、小倉に出張した。

その後、慶応元(1865)年六月には「時習館」の訓導に復帰、九月には「両助教家塾世話」をしている。翌二(1865)年三月には「進席物頭」に昇進し、慶応三(1867)年五月五日(六日説あり)に病没した。享年六十二(まま、六十三)歳、城東龍田山に葬られた。(写真1・2)

 

3、韡村の闘病と死


写真2 木下韡村之墓・中央(立田山墓地)   

    左は安井息軒撰「木下子勤墓碑銘」  写真1 木下韡村墓地入口(立田山)


 前に天保六(1835)年三十一歳の時、藩主細川斉護の「伴読」(侍講)になる時、父衛門は長い沈黙の後に、「汝は十年命を縮めん」と言ったことを紹介したが、確かにこの父衛門の言葉通り当たっていたかもしれない。

 門 弟・竹添進一郎と井上毅は、「行状」の中で、師匠の韡村の「親炙」(しんしゃ、親しく接してその感化を受けること)した二人にしか、知り得ないような韡村の闘病と死の経過について、詳細に描写しているので紹介しておきたい。

 

①  韡村の発症

 韡村は、慶応二(1865)年三月に「進席物頭」に昇進したが、その秋、韡村は「沴」(れい、悪い気)に触れ、病状が悪化したが、それもすでに「瘳」(ちゅう、癒える)した。その後は「潮熱」(一日に一度、一定の時間に熱が高くなること)が起り、なかなか「解」(げ、解熱)しない症状が続いた。そんな韡村の様子は、「神氣」(心身の力)が「沈欝」(気がめいりふさぎ込むさま)して、恒に「憂念」(深く心を痛める)していたと記す。

 慶応二年六月には再び「山陽に用兵」(藩兵を動かすこと)即ち「第二次長州征伐」が始まったが、「幾ばくも無くして輟(てつ、止める)」、即ち八月には将軍徳川家茂の死去により征長は停止され、九月には撤兵した。しかし「物論」(世人の論議)は「喧豗」(けんかい、喧騒)を増すばかりであった。

 

②  韡村の闘病

そのような世情の最中、慶応三(1867)年の旦(あした、朝)、韡村はつぎの「二絶」(二つの七言絶句)を賦している。不完全ながら「試読」と【大意】を紹介しておきたい。

〇 群行紛錯乱荊中、塗轍誰能合異同、千古金甌何所頼、回頭天地立春風

・「群行」の「紛錯」(入り交る)し乱れて「荊」(困苦の状態)の中にあり/「塗轍」(すじみち、道理)は誰ぞ能く異同を合せん/千古の「金甌」(きんおう、黄金で作った瓶)何の頼む所ぞ/「回頭」(頭を回らす)せば天地に立春の風

【大意】大勢が一緒に入り乱れて困苦の状況にある。この混乱した世情を一体誰がうまく収拾できるのであろうか。太古から続いた日本の平穏はいまや何の頼りにもならない。思いやればこの世の中にはすでに立春の風が吹いている。

〇 欲向霊蓍問未然、吉凶悔吝乱如烟、告吾獨有瓶中物、水在本根花自仙

・「霊蓍」(れいし、神のような老人)に向い「未然」(これから起こること)を問わんと欲す/吉凶(吉事と凶事)と悔吝(かいりん、悔悟と嫉妬)乱れて烟の如し/吾れ独り瓶中にある物を告ぐ/水は本根に在り花は自ら仙(仙人)たらん

【大意】神のような老人にこれから起こることを問うてみたいものだ。今日の世情は吉事と凶事、悔悟と嫉妬が混然としてまるで煙のようである。いまの自分独りが狭い瓶中から何かを告げている。まだ水は瓶の底に残っており、花は枯れず自ら仙人であろうとしている。

 この漢詩は、韡村が病床に伏しながらも、世情の動向と行末を本気で心配し、何とか解決策や希望を見出そうとし、「まだ頑張っているぞ」というメッセージを発している最期の様子がよく表現されているように思えるが如何。

 この後、韡村の「疾」(病気)はだんだん重くなり、「脅間」(まま、胸間か)を絞るような痛さとなり、やがて「心窩」(しんか、みぞおち)を刺すようになり、「帖臥」(病臥)することも出来なくなり、その上「葢癰」(がいよう、かさぶたやはれもの)が内(身体中)にできた。

 韡村は「恝然」(けいぜん、はっきり割り切る)と物を絶つ病患は、「疾篤」(篤疾、危篤の病)状態になっていた。ある客が時事を談じ始めると、韡村は額を「蹙」(しゅく、せまる)して、「秖(ただ、まさに)吾が疾に與(くみ)して敵と為るを止めよ」(この段に及んで、そんな時事問題の話をして俺を苦しめるのか、止めよ)と言った。

 一晩門人が韡村の側に付き添い、たまたま韡村の「嚊語」(がご、いびき)と「荷々二分」という寝言を聞いた。韡村が目覚めた時、どんな夢みたのかを問うたところ、「鬲下(れきか、かくか、鼎の下)二豎(にじゅ、二本足で立つ)」(鼎が二本足で立っていた)と訳のわからないことをいった。最早韡村の意識は混濁し、「分明」(判断)が入り交じって朦朧としていて、その「痛苦」は表現できないほどであった。

門人が、その夢は「平生の所に非ざるを得て憂えんや」(普通ではないので憂えているのか)と聞くと、韡村は領(頷)いた。疾は既にかなり進行していて、唇は乾燥し、舌は硬直していた。何か言いたいことがあったようであった。敢えてこれを諦めて、「氣體(精気と身体)の充つなり」(気力も体力も限界だ)と言った。

 

③  韡村の最期

韡村は「譫囈」(せんげい、たわごととうわごと)を発するようになり、とうとうどんなのが「正心」(正しい心)なのか、「直道」(正しい道)なのか、分からなくなった。また「東首(東枕)は辱臨(かたじけなく臨むこと)」(孔子と同じ死に方の意か)ことだとか、「命召」(主君の命令に召し仕る、神に召される)されるとか言ったりした。

 この「東首」や「命召」の「譫囈」(うわごと)は、『論語』の第十「郷党」に「疾あるに、君これを視れば、東首して朝服を加え、紳を拖(ひ)く」、「君、命じて召せば、駕を俟たずして行く」の文言の中に見出すことができる。

 「譫囈」(うわごと)にまで『論語』の文言が口をついて出てくるとは、韡村の「朱子学」修得が並々ならぬものであり、その度合いが如何なるものであったかを十分垣間見る思いがする。

そして「属纊」(しょっこう、臨終)の夕べ、韡村は忽ち起き上り、急に家人を呼び「朝服」(正服)を出させて着た。最後まで「刺々」(せきせき、身に応えるほど、うるさくしゃべるさま)と、多くの言葉を発したが、とうとうその中に家に関することは一言もなかったという。

 

おわりに

 以上、六十三歳の生涯を終えた韡村の事歴の概要と最期の様子から、木下韡村がどんな人物であったのか、その一端を知ることができた。また前掲の安井衡(息軒)撰「木下子勤墓碑銘」と韡村門弟・竹添井々の「木下(韡村)先生行状」で、韡村の政治・教育・学問・日常心得など、「韡村の思想」を垣間見ると共に、その「人となり」に接近できるが、紙面の都合で割愛した。

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