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[2020年7月号] 歴史アラカルト(2)

とっておきの

 熊本・菊池の歴史アラカルト (2)

 神話伝承の「茂賀の浦」と菊池平野

                堤 克彦(熊本郷土史譚研究所所長・文学博士)


古代朝鮮式山城の「鞠智城跡」にある「温故創生館」の展示を見学した後は足を伸ばし、


少し離れた展望所「灰塚」まで散策、そこから眼前に広がる菊池平野を一望して下さい。田植えの済んだ水田、また冬場の「水田ごぼう」用の温床ビニールの光景はあたかも湖面のように見えます。それがそのまま縄文・弥生頃の「茂賀の浦」であり、巨大な「八頭大亀」が住み、時々湖畔に姿を現わしていた「神話」があります。

『古事記』や『日本書記』には、10代崇峻天皇や12代景行天皇の4世紀頃「ヤマト政権」による全国統一事業が始まり、九州ではヤマトタケルによる「熊襲征伐」の時期でした。

それ以前、阿蘇大神「健磐龍命」が外輪山を「数鹿流の滝」の所で蹴破り、「阿蘇カルデラ湖」の水を一挙に流して干田にしていました。前の両天皇はその阿蘇大神に「茂賀の浦」の石壁を蹴破らせ、湖底部分がそのまま菊池平野になりました。

科学的な知識と思考を持つみなさんは、こんな神話・伝承を信じないでしょうが、古代人はこんな「蹴通し神話」を作り上げました。それにはちゃんとした理由がありました。

私たちは古代人の生活や歴史は「古典」や古い「書籍」などで十分わかっていると思い勝ちですが、実はほんの数パーセントしかわかっていません。文字が使えなかった古代人たちは、自ら体験(史実)を文字では残せません。そこで神話・伝承・伝説・昔話など「口伝え」(口承)によって、後世に残そうとしました。いまの歴史研究では神話・伝承などは「史実」ではないと鼻から否定しています。確かにそんな面もありますが、私は前から古代人の「史実」の伝え方として重視してきました。

例えば2016年4月に二度の「熊本大地震」が発生、甚大な被害がありましたが、1000年後にはその年月日・地震規模・被害状況などはどう伝えられているでしょうか。現代の発達した情報保存・伝達の技術によって、この「熊本大地震」は正確に伝えられているでしょうし、そうあってほしいと願っています。

しかし逆に1500年以前の大地震の場合はどうでしょうか。例えば弥生期に菊池川流域で大地震があり、「茂賀の浦」の石壁(山鹿市志々岐-鍋田間)が大崩壊した事実は、時間の経過と共に風化し、その情報は不正確となり、大地震があったことさえも、歴史上から消えて去ってしまっていたかもしれません。

古代人たちは経験した大地震という「史実」を「神話」にして伝えました。発生時期は「崇峻・景行天皇の頃」(4世紀前半)、地震規模は阿蘇大神による「茂賀の浦」の石壁蹴通し(大規模崩壊)、その後の「湖水の大流出と湖底の干地化」(菊池平野の出現)を伝えたことによって、私たちは菊池平野の出現の経緯を知ることができます。詳しい論証については、7月号のHPページおよび拙著『肥国・菊池川流域と百済侯国』(トライ出版 二〇一四年、写真は同書より掲載)を参照下さい。(禁無断転載・使用)

追加資料

○『研究メモノート』より

1、「茂賀の浦」から古代史再考

(1)神話伝承の「茂賀の浦」存在の有無

・中原英氏の地質学的な実証→菊池・山鹿地域に大湖沼の存在=神話の「茂賀の浦」の領域と一致 

・拙論の考古学的遺跡の分布からの検証

 縄文遺跡(6000~2300年前)の分布→「茂賀の浦」の領域確定(「縄文湖」)=45mの等高線と一致

   |

   |岩原-長岩間を流れる(約15mの浸食・流出)

 弥生遺跡(2300~1700年前)の分布→「茂賀の浦」の領域確定(「弥生湖」)=30mの等高線と一致

・結論 「茂賀の浦」には、「縄文湖」と「弥生湖」の存在確認(下図参照)下図は「茂賀の浦」には縄文湖と弥生湖があり、それぞれの水深と湖水範囲を想定できるように作成してみた。


            「縄文湖」と「弥生湖」の水深予想図

      Kikuchi Cycling Road Map(菊池市政策企画部振興課)に記入・作成

2、「茂賀の浦」の消滅の時期

(1)「茂賀の浦」の領域の縮小(干地化の進行)-中原氏測定値(プランニングメーター)

・5万年前に40mの断層(花房台地と菊鹿盆地の形成)

   ↓

・「縄文湖」1.5万~BC4世紀(57.0平方km)

   ↓                   「縄文湖」10:「弥生湖」4 

・「弥生湖」BC4~AD3世紀(22.7平方km)

   ↓

(2)「茂賀の浦」の石壁(志々岐-小原・鍋田-保多田間)の崩壊時期

・AD3世紀頃、地震による南北の縦断層か自然崩壊によって「石壁」の一部に亀裂

・AD3世紀頃の推定理由

宮崎敬士氏作成の「熊本県下の地震痕跡検出遺蹟」

・AD3世紀の阿蘇市の「小野原A遺跡」の集落隣接部の断層痕跡

・AD3世紀以降の嘉島町「二子塚遺跡」の集落中の噴砂跡などとの関連

(3)拙論の根拠

・AD4世紀前半、大地震で「石壁」の深層崩壊(水量と水圧で瓦解・貫通・流出)→菊池川の河道

・4・5世紀の「騎馬民族」末裔説(崇神・景行天皇)に注目

・九州征服(「茂賀の浦」・方保田東原遺跡〔製鉄工房〕、熊襲征服)→東征→畿内王朝化

・「茂賀の浦」の神話伝承の第10代崇神・第12代景行天皇は、AD3世紀後半か4世紀頃(4世紀前半)には実在の可能性(崇神天皇は最初の天皇(ハツクニシラシメススメラミコト、全国統一事業)

 ・崇神・景行の両天皇の「茂賀の浦」の神話(阿蘇大神に命じて蹴通す)の形成以前に「石壁」の地震または自然崩壊→神話の材料化

3、従来の歴史に「茂賀の浦」を読み込む

(1)弥生期まで「茂賀の浦」の存在あり

 ・AD2~3世紀-菊池川水系の伝「貨泉」出土(長田・台)

・AD3世紀-卑弥呼「邪馬台国」×卑弥弓呼(ひみくこ)「狗奴国」の「九州南北(肥筑)戦争」

(2)古墳期には「茂賀の浦」の存在なし(すでに枯渇・湿地・干地の混在状況)

 ・AD3世紀頃~4世紀前半-地震か自然崩壊による「石壁」の崩壊の可能性(崇神・景行天皇頃、阿蘇

大神「健磐龍命」の「蹴通し神話」)

 ・AD4世紀-古墳前期(竪穴式石室)-「茂賀の浦」あり

 ・AD5世紀-古墳中期(横穴式石室の出現)-「茂賀の浦」なし、前方後円墳の普及(韓国南部→日本〔北九州・近畿〕→「岩原古墳群」(墳丘の形状から450年頃)など

・AD6世紀-「茂賀の浦」なし、古墳後期(群集墳墓、「石壁」に横穴墓の出現)→6世紀後半に「鍋田横穴墓群」「小原横穴墓群」「長岩横穴墓群」の築造(人・弓・盾などの形象線刻) 527年「磐井戦争」

(3)飛鳥・白鳳期には「茂賀の浦」湖底領域のほぼ完全な干地化

・AD7世紀-645年「大化の改新」前後に「条里制」施行、663年「白村江の海戦」での敗北→「鞠智城」の築城

 ・AD8世紀前半-710年奈良時代(平城京遷都)、旧「茂賀の浦」領域に「条里制」の遺構

・AD8世紀後半-795年肥後国「大国」2万3500余町の口分田)に昇格

従来の菊池・山鹿両市の歴史の中に、「茂賀の浦」という特異な自然環境を考慮することで、干拓・開墾などの農業発展の歴史的な経過も、その時間的な計測が可能となった。

これまでの菊池川流域地震による「茂賀の浦」石壁崩壊の個人的な「研究メモノート」を紹介しますので、参考にしてください。

公開したのは、茂賀の浦」の歴史的存在が、ただの憶測ではなく、『古事記』・『日本書紀』、神話・伝承、地質学、地理学・地形学、考古学などによる学問的裏付けがあることを知って欲しかったからです。

 特に地質学に関しては、地質学に造詣の深い中原英氏の指導と協力を得、自らも前の「熊本大地震」による崖崩れ現場の地層、道路工事で露出した現場の地層(「茂賀の浦」の岸辺)や、西寺区の用水路工事の掘削で露呈した沈澱質粘土層(写真1・2「茂賀の浦」の湖底、下図では七城メロンドームの少し左側)などを見学・調査しました。その結果「茂賀の浦」の存在が単なる神話・伝承ではなく、現実に存在していたとの確信を得ました。

写真1 「茂賀の浦」の湖底部       


この試みによって、神話・伝承などが史実ではないと相手にされなかった「茂賀の浦」の存在と大地震による「石壁」の深層崩壊の可能性ばかりではなく、その史実の信憑性に迫ることができました。これまで「茂賀の浦」は「神話」であるとして、菊池・山鹿両市史には記述され

ることはありませんでしたが、それで

写真2 上の写真の中央部          よいのでしょうか。

 この「茂賀の浦」という特記すべき存在と大地震での「石壁」崩壊という歴史的事実を考慮・考察できれば、「日本菊池遺産」に指定された菊池川周辺に広がる菊池平野の起源とその後の先人たちの菊池平野の開墾・利用と、さらに絶えまぬ農業発展の営みに思いをはせることができます。

 これまで以上に菊池川の恩恵とそこに住

んだ私たちの先人の生活とその営みがどんなにすばらしいものであったかを明らかもしながら、今日までの歴史をたどることができると思っています。その源流が「茂賀の浦」とその石壁の崩壊に始まっていたのです。

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