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[2021年9月号] 歴史アラカルト



とっておきの                       2021年9月号

 熊本・菊池の歴史アラカルト (9)

古代菊池川流域は百済文化圏 ④-「江田船山古墳」出土大刀の具象象嵌


         堤 克彦(熊本郷土史譚研究所所長・文学博士)


前号で、江田船山古墳の「獲□□□鹵大王」=「復百済蓋鹵大王」は、21代百済蓋鹵〔コウロ〕大王、在位455~475)で、25代武寧王(在位501~523)の父(また曽祖父)との説を紹介しました。韓日辞典によると、「復」には「招魂の時のかけ声」の意味があり、「治天下復百済蓋鹵大王世」は「天下を治めた亡き百済蓋鹵大王の時代」と解することができます。即ちこの大刀は「蓋鹵大王」(在位455~475年)に製作されたと推測していますが如何でしょうか。

 江田船山古墳出土の大刀(百済・朝鮮半島製)の鎺元(はばきもと)には、つぎのように右側に「馬」と「花」、左側に「魚」と「鳥」のセットで、四つの具象象嵌文が施されています。いずれも糸象嵌による非常に高度な仕上がりで、大刀銘の稚拙さとは 雲泥の差です。

上 ①「馬」下③「魚」 上②「12弁」下④鳥

 もし通説のように、埼玉稲荷山古墳「獲加多支鹵大王」=江田船山古墳「獲□□□鹵大王」であれば、この「四つの具象象嵌文」は一体何のためにわざわざ彫り込まれたのでしょうか。この件について、一般的な見解と違った自説を紹介してみたいと思います。

まず①「馬」は百済系の「百済侯国」王が中国・朝鮮から直接輸入した「騎馬」であり、権力・権威・財力を象徴しています。通説では②「花」とされていますが、「大円の周り12の小円」と解し、「黄道十二宮」即ち太陽と星座の天文図ではないでしょうか。③「魚」は大海を難なく泳ぎ渡るので、故国百済への安全な渡海を託したものと考えられます。

④「鳥」は古来死霊の葬送と深い関係があり、『古事記』のヤマトタケル白鳥伝説、「鳥葬」の風習などは「他界へ霊を導くもの」、「神話の天の鳥船は天上と地上を往来する乗物」、また「鳥」(白鳥)は神聖視され、鳥が稲を運んだ伝承、『風土記』には変化して白い餅になった話、さらに白鳥は「候鳥」(定期的にやって来る渡り鳥)で、「鳥の帰巣本能を利用した方位を知る手段」でもありました。

この四つの象嵌文には特別な意図、即ち五世紀末期の江田船山古墳の「第二代被葬者」は紛れもなく百済系王族である証拠となるのではないでしょうか。

「江田船山古墳」の被葬者については、今後もさらに論考は続けていきますが、一応今回を以て終ることにします。次号からは「菊池の偉人・賢人伝」の連載を始めます。乞御期待。(禁無断転載・使用)


【解説】

江田船山古墳出土の大刀(百済・朝鮮半島製)の鎺元(はばきもと)の右側に「馬」と「花」、左側に「魚」と「鳥」のセットがあり、つぎの四つの具象象嵌文が施されています。

まず個人的な疑問として、通説のように埼玉稲荷山古墳の鉄剣銘「獲加多支鹵大王」が江田船山の大刀銘「獲□□□鹵大王」が同一の「ワカタケル大王」(雄略天皇)であるとしたら、後者の「四つの具象象嵌文」のようなものが、どうして前者には見当たらないのであろうか。当然四つの具象象嵌文には刻み込んだそれなりの理由と目的があったのではないか。

私としてはこの違いは非常に重要な問題と認識しているが、残念ながら通説の根拠に、この違いを検討・検証した研究者がいるかどうか、管見ながら把握していない。ただ「四つの具象象嵌文」についての検討・検証が一切なされずにして、ただ両者の文字順が酷似しているだけの理由で、同一視して憚らないような研究姿勢は個人的にはまったく解せないでいる。この違いの検証を放置したままでいいのか。他の多くの考古学者や古代史研究者が、本気でこの検証作業を本気で実施されることを期待している。

実は私はこれまでこのことにこだわり続けている。それは「四つの具象象嵌文」の彫り込みの理由と目的が明らかにできれば、安易な「獲加多支鹵大王」(ワカタケル・雄略天皇)=「獲□□□鹵大王」の見解に終始するのではなく、あるいは「獲加多支鹵大王」(ワカタケル)≠「獲□□□鹵大王」(復百済蓋鹵〔コウロ〕大王)説の解明に繋がる糸口になるのではないか。そんな思いから、以下「四つの具象象嵌文」についての傍証と自説を述べてみることにした。

一、「四つの具象象嵌文」に関する三説

 「四つの具象象嵌文」にはこれまでいくつかの見解が示されてきた。その代表的なものを紹介しておきたい。

1、菊水町史編纂委員会編『菊水町史・江田船山古墳編』(和水町教育委員会・益永浩仁氏)

・魚(尾鰭が二また)・鳥(説明なし)・馬(ペガサス〔天馬〕-権威の象徴)・花文(12弁)

2、荒木信道著『卑弥呼の陵墓・江田船山古墳の真実』(幻冬舎ルネッサンス 2013年)

・魚(鯉-朝献や朝貢を模したもの)・鳥(雁・烏-手紙や通信を表す図形)・馬(ペガサス-倭王の不死を祈る魏王の慈悲)・菊花(16弁-天皇家の紋章に関連づける)

3、和田萃氏国立歴史民俗博物館編『装飾古墳が語るもの-古代日本人の心象風景』(吉川弘文館 1995年)

・銘文鉄刀の鎺元の「天馬」の絵は「高句麗系の画師」によるもの。

・銘文鉄刀は棟に銘文、柄の鎺元に銀象嵌の馬と花・魚・鳥などの文様がある。小さな馬は電気文で描かれた「天馬」である。この思想は雄略朝段階からあり、六世紀後半から末には、倭国に「空を飛ぶ馬」、文字通り「神仙思想」に基づく「天馬」の観念が受容されていた。


二、自説「四つの具象象嵌文」

 

ただ前の諸氏の見解には、少なからず納得できない点が多い。そこで【自説】とその根拠を述べてみたい。

 まず「四つの具象象嵌文」の製作者については不詳であるが、つぎのように推測している。「馬」・「魚」や「鳥」の描き方には「特殊な細線多用の飾馬様の図化、動的姿態の配慮」(文化庁監修『国宝』12 考古)の共通点があり、その技法からすべて一人の作品と見て間違いないであろう。製作者はかなりの観察眼と表現力、さらに高い描画技法を持ち、巧みな象嵌技術を駆使できる人物であると推定している。以下それぞれについて見ていきたい。

1,大刀右側「馬」と「花」

(1)写真①「馬」        ②「12弁」

通説では「ペガサス」(天馬)説が有力である。ギリシャ神話では「有翼の天馬」であり、ローマ時代には「不死のシンボル」とされていた。乙益重隆氏や前掲の和田萃氏などもこの「天馬」説である。

しかしこの「馬」には「有翼」がなく、その代わり「立 派なたてがみ」と「長いしっぽ」、「しっかりとした 四 本の俊足」と殊の外協調された「巻き毛」の表現から、この「馬」は「ペガサス」ではなく「特殊な細線多用の飾馬様の図化、動的姿態の配慮」(文化庁監修『国宝』12 考古)で描かれた騎馬用の駿馬(すぐれてよく走る馬・すぐれてよい馬)である。

 「馬」の原産地はヨーロッパ・アジアであり、日本には在来馬がおらず移入された「馬」であった。一般的に「馬は東北アジアの騎馬習俗の中で育てられ、日本にもその品種が入っている」、「また埴輪の馬は鞍や馬具を完全装着しているから騎馬用と思われる」との見解がなされている。


【自説】当然ながら、こんな移入「駿馬」に乗ることのできる人物はそう多くはないばかりか、そんな「駿馬」の存在をすでに知っていた人物であった。この条件をクリアするのは、嘗てそんな地域(外国)にいた渡来人系の人物であったと思われる。

当時の国際状況を考慮すると、「駿馬」を強く所望したのは日本に在住していた百済系王族が一番妥当な存在であろう。即ち百済から渡来し、この菊池川流域の玉名地域に拠点を確立した「百済侯国」の侯王が、すでに権力・権威・財力などを所有し、中国・朝鮮などから「騎馬」用に百済から「半構造船」によって搬送・移入した「駿馬」であったと考えられる    (写真⑤)弁慶が穴古墳「舟上の馬」

即ち五世紀末期の江田船山古墳の「第二代被葬者」がその当事者であり、その騎馬姿は十分イメージできる。写真①「馬」の「シンボル的な描き方」はそれに相応しい「駿馬」と言ってよいのではないか。

         ②「12弁」




(2)写真②「花」

写真②「花」は「大円の周りに12の小円」で描かれ、通称「花」とされている。文化庁監修『国宝』12(考古)では「花形12弁」、和田萃氏も「花」とするが、いずれも本格的な研究の結論なのであろうか。

他に「菊花文」(但し皇室紋の16重弁)や「蓮花文」(16弁)などの説もあるが、「菊花文」・「蓮華文」はいずれも16弁で、この「花形12弁」とは一致しない。この整合性はどうなっているのだろうか。描き間違いでは通用しないし、果たして「花形12弁」の花があるのだろうか。是非御教示をお願いしたい。

通説によると、「菊花」の原産地は中国大陸で、奈良時代(八世紀)に日本に渡来した外来種であり、「蓮華文」(16弁)は公州武寧王陵の玄室側壁煉瓦や百済系軒丸瓦に使用されている。日本で光背・宝冠・瓦などに使用されるのは飛鳥時代(六・七世紀)以降で、百済の聖明王による「仏教公伝」以後のものであり、時系列的にもかなりずれている。


【自説】通称「花」即ち「花形12弁」ではなく、「大円の周り12の小円」の図形文ではないかと見て、特に「12」の数字に注目したい。

この図形文は、太陽と星座の「黄道十二宮」即ち「黄道」(漢書『天文志』の天球の大円、春分点・秋分点)と「十二宮」(春分点を起点に30度ずつ12等分し、各区間につけた名称で、古代から太陽・月・惑星の運行を示す座標)を図形化した「星座」の可能性はないのか。

韓半島では新羅や百済ではすでに「天文学」が盛んであり、天文観測では「黄道十二宮」の「星座」は重要であり、すでに安定した農漁業(生産)などの生活の中に入り込み、特に安全航海には「羅針盤」として不可欠な「天文暦」であった。そうすると、通称「花形12弁」ではなく、「大円の周り12の小円」の「天文暦」のデフォルメであった可能性はないのか。


2、大刀左側「魚」と「鳥」


(1)写真③「魚」

写真③「魚」は大海を自由に泳ぎ回ることができ、どんな海の状態であっても一向に問題はない。ところが人間の場合「渡海」はそう簡単ではない。百済本国からの対馬海峡を渡海して、日本(新地)の「百済侯国」への無事に渡来するのは容易ではなかったし、また故国百済への渡海も海難の恐れと背中合わせの決死の行動であった。


【自説】そんな「渡海」環境にあって、難なく渡海する立派な形の「魚」にあやかろうとするのは当然の心境であろう。また百済王族系の人々が、往来する「船」(準構造船)が大魚の協力を得て、無事に渡海する神話や呪話にあやかろうとした願望を無碍には否定はできないであろう。それがこの大刀銘に「魚の象嵌文を彫り込んだ大きな理由であったのではないか。但し「魚」の種類については不詳、乞御教示。


(2)写真④「鳥」

写真④「鳥」に比して、紙面の都合で、装飾古墳の壁画の「魚」の描き方を紹介できないが、あまりにも稚拙なものばかりで、この「鳥」の象嵌とは雲泥の差があると言っても過言ではない。

この「鳥」は前の「馬」や「魚」に劣らず丁寧な描き方である。この「鳥」の種類は不詳であるが、ただ頭部は嘴と目が異常に強調され、嘴の先端のかぎ状の曲がり具合から「海鵜」ではないか。ただ目の描き方は所謂「鳥目」(ちょうもく)でなく、目尻が流れた「悲しみ」の表情をしている。

写真⑥ 弁慶が穴古墳壁画(柩上の鳥)

「鳥」と「悲しみ」と言えば、古来「鳥」が死霊の葬送と深い関係があり、容易に「葬送」に繋がる。日本古代では、例えば『古事記』には、ヤマトタケルの白鳥化伝説があり、また「鳥葬」は

   

死者の霊を他界へ導く風習であるなど、いずれも重要な役割をするのが「鳥」であった。

その他「日本神話の天の鳥船はむしろ天上と地上を往来する乗物」であるとか、また「鳥」(白鳥)は神聖視され、鳥が稲を運んだ伝承とか、『風土記』には変化して白い餅になった話などがあり、さらに白鳥は「候鳥」(定期的にやって来る渡り鳥)として、「鳥の帰巣本能を利用した方位を知る手段」とされていた。


【自説】古墳時代の「馬」と「鳥」は葬送セット(写真⑦・⑧参照)とされるが、この大刀

銘の具象文「馬」と「鳥」セットには特別な意味付けがなされていたのではないか。即ち前

述したように、「馬」はあくまでも生前百済系王族の被葬者が騎馬用に百済から搬入した「駿馬」であり、権威の象徴でもあった。「鳥」はその百済系王族の被葬者の霊魂を無事に津島海峡を渡海して故国百済に「葬送」するために欠かせないものであった。ただ古墳の埋葬品として出土する「鳥」は一般に「水鳥」とされている。

以上のように、江田船山古墳出土の大刀銘に付された「四つの具象象嵌文」そのものには、

わざわざ彫り込むだけの意味と理由があるとすれば、単に「獲加多支歯大王」(ワカタケル・雄略天皇)=「獲□□□歯大王」を通説として安心するのは如何なものであろうか。最後まで疑問を投げかけておきたい。

 またここに江田船山古墳の「獲□□□歯大王」=「復百済蓋歯大王」説では、21代百済

蓋歯〔コウロ〕大王、在位455~475)で、25代武寧王(在位501~523)の父(また曾祖父)との説も捨てがたい由縁である。

 ただ「復百済蓋歯大王」説を採った場合、その「復」の解釈が気になる。韓日辞典によると、「復」には「招魂の時のかけ声」の意味があった。そうすると「治天下復百済蓋歯大王

世」は「天下を治めた亡き百済蓋歯大王の時代」と解することができる。この大刀は「蓋歯大王」(在位455~475年)に制作されたと推測できないか。

 以上のように、江田船山古墳出土の大刀銘「四つの具象象嵌文」は「獲□□□歯大王」=

「復百済蓋歯大王」説にとって重要なものであったと確信している。そんな思いを残しながら、このシリーズを終えることとしたい。

 今後もこの問題についてはさらに論究を深めていくつもりであるが、一人よりも多くの考古学者や古代史研究者の諸氏もこの研究に参加してもらい、この問題に真摯に向き合ってもらい、一緒に研究できればと思っている。大いに期待している。


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