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[2021年11月号] 歴史アラカルト

とっておきの                      2021年11月号

 熊本・菊池の歴史アラカルト (10)

『菊池の偉人・賢人伝』①-菊池の文教的風土の基盤


堤 克彦(熊本郷土史譚研究所所長・文学博士)

新しいシリーズ『菊池の偉人・賢人伝』を始めます。この偉人・賢人たちの多くは、菊池氏滅亡後の家臣たちの後裔でした。彼らは菊池氏滅亡後、主君を失った浪人として地元に残り、ある者は町人(豪商)に、ある者は農民(豪農)となりましたが、自分たちは菊池氏家臣の後裔であるという誇りを持ち続けていました。

菊池郷には「生まれながらに五位」

(菊池の人士は生まれながらに五位〔貴族・ [花房台地からの菊池郷の遠景]

上級官人・殿上人〕の有資格者)の俚諺があります。

町人(豪商)たちは菊池氏時代の町人町「立石」から、加藤清正によって「町づくり」された「隈府町」(上町・下町)に移住しました。彼らは菊池氏時代の中世的な「町衆」の性格を色濃く持ち、自らの手で隈府町の運営即ち「自治」を行ないました。書き継がれた『嶋屋日記』(190年間)がそのことを物語っています。

農民(豪農)たちも隈府町の周辺に定住、開墾を繰り返しながら耕作地を広め、大きな財を築きました。また後裔でなくとも、例えば村田村の川口新左衛門のような有能な実践的農学者もいましたし、その他にも数多くの学者や偉人・賢人を輩出しています。

生活の基盤を築き上げてきた菊池氏家臣の後裔たちは、江戸期になると、やっと自分たちの祖先や主君菊池氏の顕彰運動を始めました。前に紹介した「生まれながらに五位」の俚諺は、少しも憚ることなく口にし、むしろ後裔としての自負の証でした。やがて菊池氏家臣の後裔である町衆(豪商)・農民(豪農)ばかりでなく、地元に住む者たちにも、菊池氏家臣の後裔・末裔を誇りとする気風が定着しました。

吉野の辺の民と、肥の菊池の民、今に元弘・建武の事を慕ひ、田夫、野老といへども 猶ほ慨然として之を語る。人心に固結するの深き、実に感愴に堪へずと云ふ。

会津藩士橋詰介三郎は、九州遊歴の途中、江戸遊学の知友横井小楠を訪ね、一緒に菊池を訪ね、荒城の「守山城」に登った後で別れています。その橋詰はその帰途に水戸藩の藤田東湖を訪ねています。藤田は天保十三(1842)年の『見聞偶筆』に、その時聞いたつぎの話を収録していました。

即ち幕末頃の菊池では吉野と同じように、学識のない百姓や老人までが、鎌倉末から南北朝期にかけて活躍した菊池氏のことを心中深くしみ込ませていたことにいたく感心したという内容です。

この幕末から100年も前の寛延元(1748)年に、初代渋江紫陽が「古学」(徂徠学)と「菊池氏顕彰」を二大柱とする渋江塾「集玄亭」を開きました。これは宝暦五(1755)年の藩校「時習館」開校よりも8年前のことです。それから明治三十八(1905)年に渋江晩香・公寧父子経営の「遜志堂」を閉塾するまで、塾名は違いながらも「渋江塾」は約160年間続き、私塾史上でも稀有の長さです。その期間は明治三(1870)年「時習館」廃校までの115年間よりもさらに45年長く、多くの有能な人材を送り出しました。

江戸期の藩庁文書でも、菊池郷を「以前より人材傑出之土地柄」と記すほどであり、こんな先人たちの文教尊重の姿勢は、「菊池文教」の名のもと、藩内外に大きな影響を与えた歴史がありました。次号から「渋江塾」の関係者ばかりでなく、同時期の代表的な先人・偉人・賢人たちの事歴も一緒に紹介していくことにします。詳しくはHP「みんなの図書館菊池」をご覧ください。(無断転載禁止)


HP用

【資料】 


はじめに

これは今から21年前、菊池高校在任中の2000年、生徒や教師向けに毎週発行した機関紙「菊高の郷土史譚」26(2000年11月3日号)をもとに書き加えたものです。この中にある「菊池初代則隆の出自」に関しては、以前私もは「菊池土豪説」を採っていましたが、35年の研究の結果、現在では「藤原後裔説」が正しいとの結論に達しています。

但し従来の「藤原後裔説」ではありません。詳細な論考については、拙論『再考「菊池初代則隆の出自」-二人の「政則」(蔵規≠基定)説-』(熊本県高校地歴公民科協議会誌『研究紀要』第51号 2021年5月発行、抜刷冊子・定価1100円)を一読ください。「菊池物産館」で購入できます。


一、藤田東湖著『見聞偶筆』の背景 

天保十三(1842)年の藤田東湖著『見聞偶筆』に、つぎの一文がありました。もう随分前になりますが、水戸学の小楠への影響を調べていた時にたまたま発見したものです。


吉野の辺の民と、肥の菊池の民、今に元弘・建武の事を慕ひ、田夫、野老といへども、猶ほ慨然として之を語る。人心に固結するの深き、実に感愴に堪へずと云ふ。


これは会津藩士橋詰介三郎が、幕末頃の菊池で体験した話で、奈良の吉野と同じように、学識のない百姓や老人までが、鎌倉末から南北朝期にかけて活躍した菊池氏のことを心中深くしみ込ませていたことに、いたく感心したという内容です。これが菊池の精神風土であり、本来の「菊池精神」の母胎といってもよいでしょう。

天保十一(1840)年秋、会津藩士橋詰(爪)介三郎が、九州遊歴の途中に、突然熊本城下の小楠を尋ねてきました。小楠はその橋詰を菊池まで送り、共に一泊した翌朝別れています。

横井小楠はその別れに際して「橋爪子を送り、共に菊池に到り、別れに賦す。此の日の秋尽くし」と題して、つぎのような漢詩(七言絶句)を詠じています。

 一剱瓢然として壮遊を賦す

来りて蓬戸を敲き且つ淹留す

 武城(江戸)の昨日同じ客と為り

紫海(筑紫の海、九州)の今朝共に秋を送る 

蘇嶺(阿蘇山)の煙昏(くら)く、人北に去り

 黄花(菊花)の波風易(あが)り、水南に流る

 別離耐えず頻りに涙を揮(はら)ふ

古塁茫々たり落月の愁ひ    (原漢詩)


  









【試訳】

一人の武士(橋詰介三郎)が、ふらりと九州にやって来て、遊歴のことを壮んに賦している。その彼が肥後藩の我が住家にやってきて、しばらく逗留した。

橋詰は小楠が江戸遊学中に昵懇になった友人の一人であった。その橋詰と一緒に「紫海」(筑紫の海、九州)で、今朝の秋を送っている。「蘇嶺」(阿蘇山)の煙は昏(くら)く、人(橋詰)は北に帰って行く。「黄花」(菊花)の波は風によって易(かわ)り、水(小楠)はこれから南(熊本城下)に帰って行く。

この「別離」には耐えられず、頻りに涙を揮(はら)ってしまった。「古塁」(廃城の守山城)は「茫々」(雑草におおわれているさま)としている。しかも「落月」(西に没しようとする月)の愁いまでが加わり、別れが一層辛くなってしまっている。


はじめ「別離に耐えず頻りに涙を揮(はら)ふ」は、余りにも漢詩特有の表現ではないかと思っていましたが、小楠が江戸での「酒失事件」で二年間の江戸遊学が一年で中断され、しかも帰藩後70日間の閉居を余儀なくされていた小楠にとっては、橋詰の突然の訪問と離別を断腸の思いで受け止めていたことがひしひしと伝わってきます。

以前横井小楠関係の文書調査をしていた時、たまたま熊本市内で小楠の兄時明の書いた「後年要録」の一部を発見しました。その中には小楠の江戸遊学から帰藩までの経緯が詳細に記されていました。当然「酒失事件」のことも出ていました。

それによると、小楠は天保十(1839)年の江戸遊学中に、橋詰詰三郎と知り合い、藤田東湖宅での酒宴にも同席していました。その帰途に起こった「酒失事件」とは、幕吏で公義御徒相良由七郎と作詩のことで言い争いになり、それが高じてあわや抜刀寸前で収まり、事なきを得た事件でした。橋詰はその場に居合わせ、その一部始終をよく知っていた人物でした。

この一連の事情が判かれば、前の漢詩が小楠の正直な心境を吐露したものであり、決して大袈裟ではなかったことが理解してもらえるでしょう。つまり橋詰の九州遊歴は、単なる諸藩の物見遊山ではなく、「酒失事件」で閉居処分を受けていた小楠の消息を気遣い、九州遊歴に託けての来熊だったのです。

漢詩の理解には歴史的な背景がいかに大切であるかを思い知らされました。前掲の話は、その橋詰が会津藩に帰る途中立ち寄って、藤田東湖に九州遊歴の話をした時の一こまでした。


二、「生まれながらに五位」

さて菊池には「菊池の人士は生まれながらに五位の位を有する」という言葉があることをご存じでしょうか。これは通説では明治以降に言われ始めたとされています。地方には似つかわしくない「五位」という古代の律令官制の位階が使用されています。これは文字通り「菊池地方の者は生まれながらに貴族の官位である五位の位にある」という意味です。

これまでの解釈では、この「五位」は、菊池氏の始祖とされる菊池則隆が大宰府大監であった時の官位(従五位下)であり、菊池地方の人々はその菊池氏の末裔として、それを誇りに気位が高かったというふうに取られていました。

しかし前掲の天保十三(1842)年の藤田東湖著『見聞偶筆』には、「菊池の人士は生まれながらに五位の位を有する」の文言はありませんが、すでにこの基盤があった証になると思われますが如何でしょうか。

また前の『見聞偶筆』から13年後、『嶋屋日記』の安政二(1855)年三月の項に「五位のくらいといふハ、将軍之宮(懐良親王)の位ヲ次(まま、以)テ、菊地の遺民の方言也」(但し親王の位階は一品から四品までであった)とあり、さらに「町の者兼てわいふハ五位の位と、ことわざに馬鹿者共か申候間、惣たい気ぜん高く候より、御製(制)度之品(事情か)等を背キ申より之事かと考ふ」、「町の士風ハノボセ也」とも記され、すでに「五位の位」の「ことわざ」が流通し、隈府町では「気ぜん高く」即ち気位高く、増長した町人がいたことがわかります。またそんな彼らに反省・自粛を求める記事が収録されています。

そうしますと、前の「菊池の人士は生まれながらに五位の位を有する」云々は、必ずしも明治からではなく、すでに江戸時代には定着していたことがわかります。


三、さらに必要な「生まれながらに五位」の論考

前述したように、菊池地方のこの俚諺「生まれながらに五位」には、従来菊池氏初代則隆の出自が「大宰府官系武士」で「大宰府大監」であり、その官位は「五位」(従五位下)であったことによるものとされてきました。

それに依拠して、菊池の地元では、その則隆の末裔であるとの誇りが「生まれながらに五位」(菊池の人士は生まれながらに五位の位を有する)と表現して俚諺となり、江戸期から今日まで菊池に関係のある先人たちも、そして私たちも何となく納得してきました。

しかしそれでよいのでしょうか。そんな疑問を持ったのは、最近の拙論『再考「菊池初代則隆の出自」-二人の「政則」(蔵規≠基定)説-』を書いた時でした。この拙論により再考察をすれば、従来の解釈には個人的に違和感が生じてしまい、そこで再度論考を重ね、つぎのように考えてみました。

菊池初代則隆は、中関白家藤原隆家の五男基定(改名政則)の嫡子で、京都から直接「菊池下向」、叙位「正四位上」で、決して従来の「大宰府官系武士」で「大宰府大監」の「五位」(従五位下)ではありませんでした。

平安時代の公卿たちの地位は、「官位相当制」と「蔭位制」によって決まっていました。「蔭位制」では「嫡子」・「嫡孫」と「庶子」・「庶孫」ではその叙位に差がありました。「中関白家」の場合、藤原道隆は「正二位」の官位で「摂政関白」・「権大納言」の官職にありました。その四男(庶子)隆家は「中納言」で、最終的に「正二位」の官位、その五男(庶子)藤原基定(政則)は「従六位下」、その長男(嫡子)藤原則隆(菊池氏初代則隆)は、「菊池下向」時に、後三条天皇から特別優遇されて「正四位上」(死後贈従三位)の叙位でした。

菊池氏初代則隆の下向時に「正四位上」(死後贈従三位)であれば、「蔭位制」では嫡子は「従七位下」か「従六位下」と言うことになります。従来の菊池則隆の「従五位下」説では、かりに後裔の菊池の民を則隆の「庶子」と見なされたとしても「従八位下」です。

「中関白家」の系譜からわかるように、「蔭位制」は当然ながら従来の菊池氏初代則隆にも適用されたはずであり、その子孫の菊池の民が菊池氏初代則隆の「五位」(従五位下)をそのまま叙位されることはないのです。いずれにしろ、「官位相当制」と「蔭位制」に従った場合、「生まれながらに五位」、即ち最初から「五位」(従五位下)と言うことにありませんでした。

それなのに、菊池の地元では、「生まれながらに五位」(菊池の人士は生まれながらに五位の位を有する)という俚諺がありました。この不整合はどう考えればよいのでしょうか。

そこで改めて「五位」の意味を「官位相当制」で見てみました。そうすると「五位」は「貴族」(上級官人)の「通貴」(正四位上・下、従四位上・下、正五位上・下、従五位上・下)に属し、「殿上人」としての有資格者の下限であり、正六位上以下の下位者とは格段の差がありました。また「五位」は「叙爵」で「大夫」と言われました。

そこで再び「生まれながらに五位」の俚諺を考え直してみました。即ち「五位」は貴族・上級官人・殿上人の有資格者として優遇された叙位の意であり、前述した「官位相当制」や「蔭位制」に直接関係のない「生まれながらに高貴」の意と解した方が当っているのではないかと思っています。

ただ現在いまだこの俚諺を十分解明するまでには至っていません。何とかしなければならない疑問・課題として残ったままになっています。是非読者のみなさんの協力を得ながら、少しでも解明に近づければと思っております。


おわりにかえて

最後に歴代菊池氏が「菊池精神」の元祖として戦争に利用されていく経緯を略述しておきたいと思います。明治後半に「南北朝正閏問題」即ち北朝と南朝のいずれの皇統が正統かの論争が起こり、その決着に政府が介入、その結果「水戸学」の尊王論で主唱された「南朝正統論」がクローズ・アップされ、それにより再燃した格好で、大正・昭和を突き進みました。

日本と軍部は、昭和六(1931)年に「満州事変」を引き起こし、「日中戦争」・「太平洋戦争」と戦域を拡大し、ついに「15年戦争」に突っ込んでしまいました。昭和八(1933)年、「国際連盟」は日本が主張した「満州国」の建国を承認しませんでした。それを理由に「国連脱退」、国際的に孤立し、日本はますます「軍国主義」一色となっていきました。

これまで素朴な菊池氏への懐古な「南朝贔屓」の下で顕彰され始め、もともと南朝方がどんな苦境にあっても「南朝一辺倒」に終始し、孤軍奮闘してきた菊池氏への賛美であったのですが、日本政府と軍部は、戦況が次第に窮地に追い込まれはじめますと、戦況の絶対的悪化を「神風特攻隊」や水雷艇「回天」によって切り抜けようと躍起になり始めました。

その過程で、前述したように、もともと純粋で素朴な菊池氏、孤立しながらも「南朝一辺倒」であり続けた歴史的立場を、泥沼化した戦況に菊池氏の苦境での孤軍奮闘を重ね合わせ、「菊池精神」として日本の戦意高揚に利用できるように大きく変えられていきました。こんな忌まわしい過去があったことも合せて考えてみてください。

詳しくは拙論「『菊池南朝史観』の形成と『菊池精神』の戦時利用」(熊本近代史研究会編『第六師団と軍都熊本』〔創流出版 2011年〕所収)を参照下さい。

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