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[2021年正月号] 歴史アラカルト


とっておきの             2021年1月号

 熊本・菊池の歴史アラカルト (5)

私流「魏志倭人伝」の読み方 ③-「菊池山門説」の正否


堤 克彦(熊本郷土史譚研究所所長・文学博士)


                    『倭名類聚鈔』の郷名


「魏志倭人伝」では「邪馬台国」と書か

れていますが、中には「耶馬 台国」と書いたものもあります。「邪]も「耶」も同じ「よこしま、不正」の意であり、『三国志』には、すでに魏では周辺国蔑視の「中華思想」的な感覚があり、和名「やまたいこく」の表記を「邪馬台国」、他に「倭」・「卑弥呼」など相手を卑しめるような漢字を当てていました。

もともと地名のほとんどは自然地形などの特徴を判別するために付けられるものでした。「邪馬台国」も同様で、「邪馬」(やま、山・岾・耶麻、邪=僻の意)+「台」(周囲より一段と高く、ほぼ平らな台地で、見晴しのきく所)という国名です。当時魏からして、「邪馬台国」は「倭」(日本)の中央ではなく、 「邪=僻」即ち僻地にあり、景観上「馬の背のような台地」にあった国名とすれば、「邪馬台国」の存在した地域は九州地方であった可能性が十分考えられるのではないでしょうか。

 「邪馬台国」論は、すでに江戸期には新井白石の「畿内説」、本居宣長は「九州説」(後に「畿内説」)、明治期には白鳥倉吉(東京大学)の「九州説」、内藤湖南(京都大学)の「畿内説」が「邪馬台国論争」に発展、現在に至っても決着はついていません。私の場合「魏志倭人伝」の使用文字や文章の分析などを根拠に「九州説」を主唱しています。

 ところが「邪馬台国」の「九州説」は一つではありません。新井白石は「筑後山門説」、本居宣長は「筑後国山門説」、近藤芳樹・太田亮・丸山雍成の「肥後菊池山門説」、古谷清・坪井九馬三の「肥後玉名説」などがあり、それぞれの比定した理由に十分納得させるものがあります。

ここでは「菊池山門説」について見ておきます。約1000年前の平安中期、源順編著の『倭妙類聚抄』に、肥後国菊池郡の9郷名の中に「山門」があり、おそらくこの説の出典と思われます。拙論「鞠智城と菊池郡の郷名」(熊本県高等学校社会科研究会編『研究紀要』第50号 2020年)で、この「山門」は663年の「白村江の戦い」で敗北以後、百済難民により築城された朝鮮式山城「鞠智城」と関係の深い地名であり、和名の「やまと」読みが始まった時期は不詳ですが、「山門」は「鞠智城(山)への入口(門)」から「山戸」(やまと)に依拠した読みの可能性も論究しています。もし拙論通り「山門」が7世紀後半の郷名であれば、3世紀頃の「邪馬台国」比定地としての「菊池山門説」は成り立ちません。

現在の「邪馬台国九州説」は、さらに福岡県内の「大宰府説」・「朝倉説」、大分県内の「宇佐説」などもありますが、郷土史家による「地元候補地主義」の傾向が強く見受けられます。ある面では仕方のないことですが、歴史はロマンではなくドラマですので、研究には客観的なシビアさを切望します。

私の「九州説」では、「邪馬台国」の候補地を考える際、「魏志倭人伝」の記述に史実としての信憑性を認め、その上で「邪馬台国連合」と対峙した「狗奴国連合」の地域を考慮することが不可欠かつ重要と思っています。通説では「狗奴国連合」は肥国菊地川流域とされています。この点からも「菊池山門説」は成立しないようです。

「九州説」の「邪馬台国」の比定地はいまだに決着がついていませんが、私はその決定条件として「地震崩壊」や「ヤマト政権」による九州席巻後の徹底破壊なども考慮すべきと思っています。ただ時点ではと聞かれたら、私なりの具体的根拠の考察から河川を重視し、筑後川中流域の「久留米国府」付近か、矢部川下流域の「筑後山門」(瀬高)付近が一番妥当ではないかと考えていますが如何。

(つづく、禁無断転載・使用)


【参考】

〇郷名「山門」について

この『倭名類聚鈔』にある「山門」に関して、従来から「邪馬台国九州説」の「菊池山門説」があり、その提唱者には近藤芳樹・太田亮、最近では丸山雍成氏がいる。ここでは丸山雍成著『邪馬台国魏使が歩いた道』(吉川弘文館 2009年)を紹介し、自説を付しておきたい。


「菊池川上流域での最たる遺跡は鞠智城と連続するうてな台地の想像を絶する遺跡群(環濠集落ほか)であって、台地下にひろがる広大な水田平野の眺望は圧倒的迫力を持つ。ここが肥後の中・北部と筑後を包摂する邪馬台国の内陸中央部の奥まった場所=「台」(朝廷)として、一つの大きな候補地に挙げられるだろう。黛弘道氏は、鞠智城を狗奴国の勢力から守る、対南方前進基地の一つとみたが、私は邪馬台国の王都を構成する城郭と王宮を構成する場とみても、『魏志』の記事に矛盾はしないと考える」


おそらく丸山氏は、「台」(うてな)が「四方を観望できる高い建物・高殿・高楼」、『倭名抄』では「上に土を積み重ねて作った壇」の意であることに着目しての見解だったのではないか。


【自説1】 確かに弥生後期には佐賀県吉野ヶ里遺跡に匹敵する「うてな大集落」の存在は確認されている。近くには山鹿市の「方保田東原遺跡」の製鉄・銅などの工房施設などがあり、かなり進んだ地域であったことは間違いない。

しかし3世紀中期の邪馬台国時代には、菊池平野(菊鹿盆地)全体がまだ「茂賀の浦」の湖底にあり、崩壊したのは4世紀後半と推定される。その後干地化したが、まだ多くの大小の湖沼が散在していたため、決して豊かな水田農耕地帯ではなかった。また『魏志倭人伝』にある女王卑弥呼の「宮室」や「楼閣」「柵城」などの遺構は出土していない。


【自説2】 以上のことから「邪馬台国」の「菊池山門説」は無理ではないのか。また「山門」が「百済難民」による「百済名」の郷名とすれば、「山門」の発音はあくまでも「サンムン」であり、「山門」地名も7世紀以降となり、時系列的にも3世紀後半の「邪馬台国」の「菊池山門説」は成り立たない。

また「山門」の郷名を「和名」の「やまと」読みにした時代は定かでないが、「やま」は高く凸起した所、「と」は戸・門の意で、「山」への入口の地名である。当時も地名はその地域または遠くに住む者にも共通して命名する価値のある特別な「山」であり、単なる自然地形の「山」を指したものとは思えない。即ち特別命名を必要とした重要な「山」であり、その入口を「山門」(やまと)と命名したのであろう。

その特別な「山」は「鞠智城」(朝鮮式山城)ではなかったのか。その「鞠智城(朝鮮式山城)への入口」が「山門」と記され、「やまと」と称したのではなかったのか。即ち古代主要官道「西海道」から分岐し、「菊池郡家」を経由する脇官道(車路)が設けられていたので、その近くから「鞠智城」の正門「堀切門」までの入口を意味する郷名と推測している。

前述したように「朝鮮式山城」と「都城」がセットであれば、この「山門」の付近には「都城」(集落)があり、その場所が「隈府」か「台台地」周辺ではないかと推測しているが、残念ながら「隈府」一帯には古代都城らしき遺跡は未発見である。ただ「台台地」には、後述するように奈良・平安の竪穴住居址や掘立柱建物が出土している。

ついでながら、面白い資料があるので紹介しておきたい。無名氏編著『史籍集覧・歴代鎮西要畧』全十二巻(近藤瓶城 一八八三年)の二には、菊池初代則隆について「延久四年壬子、従五位上藤原則隆為肥後守。下菊池隈部府。是中関白道隆公之孫。菊地(まま、池)氏之源也。父祖皆為都督大尹」(延久四〔一〇七二〕年壬子、従五位上藤原則隆肥後守と為る。菊池隈部府に下〔下向〕る。是れ中関白道隆公の孫。菊地〔まま、池〕氏の源〔始祖〕也。父祖〔先祖〕皆都督〔大宰帥・大宰大弐の唐名〕大尹〔長官〕と為る)とある。

紺野所有の『菊池家系図』などの「延久二(一〇七〇)年」が「延久四〔一〇七二〕年壬子」に、通説の「従五位下」は「従五位上」となっていて、「菊池下向」先も「深河村」ではなく「菊池隈部府」(現・隈府)となっている。

著者「無名氏」の誤認の可能性も十分考えられるが、個人的には非常に興味を感じているのは、著者が「菊池下向」の地を「菊池隈部府」即ち「菊池郡」の「隈部府」(隈府)と記している点である。「藤原則隆」が「肥後守」であれば、「肥後国府」に下向・居住するのは当然であり、「菊池隈部府」を「肥後国府」と考え、少しも疑わなかったのではないのか。



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