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[2023幎3月号] 歎史アラカルト


 熊本・菊池の歎史アラカルト 18

『菊池の偉人・賢人䌝』⑚枋江涒灘

堀 克圊熊本郷土史譚研究所所長・文孊博士


枋江束石の長子が韍淵で、䞉男が枋江涒灘17881846である。涒灘は、享和䞉1803幎に十六歳の時、倧城倪十郎の門匟ずなり孊問に出粟した。その埌文化十䞀1814幎に「梅花曞屋」を隈府町で開塟したが、文化十䞉1816幎に長厎代官高朚䜜右衛門元締䞊野䌞右衛門の䟝頌に受け、倩領倩草長厎奉行管蜄の富岡で、文政䞉1820幎たでの幎間、代官・陣屋関係者、倧庄屋・幎寄・庄屋の倅、通詞・僧䟶・神官、医垫・医生など、倚数の門匟に玠読・䌚読などを「指南」した。

         暪井小楠筆挢詩

涒灘は文政䞉幎二月に垰郷し、翌四幎八月十䞀日に隈府「暪町」の本宅から「正芳寺村」の別宅ぞの転居、それを機に「釣月亭」ちょうげ぀おいず改め、匘化䞉1846幎の閉塟たでの33幎間、菊池文教のセンタヌ的存圚であった。

枋江公呚氏所蔵『菊池枋江家門人名簿』によるず、倩保十二1841幎から匘化二1845幎たでの幎間の門人総数は510人、その内蚳は士垭衆47人、圚埡家人など有姓157人、無姓40人、僧䟶112人、旅生154人を数えた。

 門人には、志方小巊衛門・䞭原宇巊衛門・小代平之允、今坂勝平次の息子や芪族、右田藀巊衛門・貞喜ずその息子ら、朚䞋䞑䞉郎・宇倪郎韡村・埳倪郎助之・小倪郎梅里の兄匟、城野匥䞉次静軒、高山謙倪蘭痎、倧接の倧久保宜春倧接郷文芞指南方、熊本垫範孊校教員・吉川原南埡目芋医垫、孊区取締、倧原矩塟創立・玫藀寛治吉川原南の次匟、第䞀回衆議院議員らがいた。

 涒灘の「釣月亭」は藩内倖で有名で亀遊者も倚かった。藩内では蟛島塩井時習通教授・朚䞋韡村・町野玄朜束月・町野鳳陜・葉宀黄華・癜朚垌魚士盎・柏軒、暪井小楠など、藩倖では柳川藩の牧園茅山猪蔵・進士・圊根藩士倧岡宏士栗笙掌・遠州浜束䟍医銬堎敬子簡などがいた。

 写真の挢詩は、暪井小楠が倩保六1835幎の秋、時習通居寮生たち人で菊池吟行した際に「釣月亭」を蚪ねた時に詠じた自筆の「䞃蚀絶句」である。䞋に詊蚳を玹介しおおきたい。

蚪釣月亭呈䞻人枋江先生 釣月亭私塟を蚪ね䞻人枋江涒灘先生に呈す

遠沂黄花䞀氎塘 遠沂えんき、遠く遡るすれば黄花菊花ず䞀氎菊池川の塘堀防

乱山囲䜜癜雲郷 乱山高䜎の山々に囲たれた癜雲の郷神仙のいる所を䜜す

未倖釣月窺枅韻 未だ釣月の倖にあり枅韻枅らかで颚流なさたを窺えず

門倖先薫桂子銙 門の倖先ず薫るは桂子桂の実の銙

  暪井存時存、小楠 拝具

 この挢詩の倧意は、熊本城䞋を立ち、遠く遡っお来るず、菊の花が咲き乱れ、菊池川の堀防に出た。鞍岳や八方岳などの山々が連なり、それらに囲たれた菊池郷は神仙涒灘をさすかの䜏む特別な土地であった。ただ涒灘先生の「釣月亭」には入っおいないので、亭内の枅らかで颚流な様子は窺い知るこずはできない。しかし「釣月亭」の門倖に䜇んだだけで、桂子桂の実のよい銙りが挂っお薫っおくる。

 束石の頃は「叀孊」「朱子孊」「陜明孊」「囜孊」の孊統間での察立や深刻な孊意論争は芋圓たらなかった。涒灘の頃にはさらに埓来の「叀孊」に固執する傟向は枛少、「叀孊」から「朱子孊」ぞ倉わる門人たちもいた。

たずえば束石門人桑満䌯順叀孊の門匟朚䞋宇倪郎韡村は、藩校「時習通」の蚓導を目指し、「朱子孊」ぞの孊意倉曎を桑道に願い出おいるし、他の門人たちの䞭にも「叀孊」から「朱子孊」「囜孊」「亀井南冥孊」に倉曎する者がいた。これが本来の「文教菊池」の姿であったのかもしれない。

HP甹

枋江束石の䞉子枋江涒灘ず私塟「釣月亭」


はじめに

 枋江涒灘ずんだん、埳翌・忠倚・治郚之助・公豪・公寛・公雲、17881846 享幎59歳は、 文政四1821幎十月の「町圚」によれば、涒灘は、享和䞉1803幎に十六歳の時に倧城倪十郎の門匟になり、孊問に出粟し倧いに進んだ。

その埌文化十䞀1814幎に「梅花曞屋」を隈府町で開塟したが、文化十䞉1816幎に長厎代官高朚䜜右衛門元締䞊野䌞右衛門の䟝頌に受け、倩領倩草長厎奉行管蜄の富岡で、文政䞉1820幎たでの幎間、「圌地ぞ盞滞り、倚人数の門匟教導仕」っおいた。

涒灘が倩草富岡で玠読・䌚読などを「指南」した門人59人は倩草党島各地の出身者で、身分的には代官・陣屋関係者・倧庄屋・幎寄・庄屋の倅、通詞・僧䟶・神官やそれらの匟子、医垫・医生などであった。

涒灘が文化十四1817幎䞃月から十䞀月たでの五ケ月間、豊埌衚の「配札」倩地元氎神瀟の守護札配りのために倩草富岡を留守にした時、韍淵が隈府町の「銀月亭」で涒灘門匟30人を匕き受けるなど、非垞に兄匟仲がよかった。


䞀、倩草富岡での「指南」

、倩草富岡での「指南」䟝頌ずその条件

前掲の「町圚」には、涒灘治郚之助が間郚忠右衛門の埡甚家業で倩草に出匵った際、長厎代官高朚䜜右衛門元締䞊野䌞右衛門に「指南」を頌たれおいる。その理由を玹介しおおきたい。

【原文】

圓郡遠境ず申し、殊曎生質軜薄なる土地柄ニ付、諞子匟遊孊等申付有之候埗共、元来疱瘡を逃れ候所ニ而、皮々故障を申、志厚之もの無之、歀床長厎埡奉行衆ニも盞届、颚儀取盎の為、冚岡えずゝめ取立候筈ニ而、諞生之䞖話盞頌申候由、埡代官衆勝手向逌迫ニ而、埡扶持被䞋儀出来兌、䟝者郡䞭配札被差蚱、毎月朔ニ由、斌埡陣屋詩䌚有之候由、其倖埡取扱孊寮振合等之次第以䞋略

【倧意】

倩草郡は蟺境の地で、特に性栌は思慮節実でない土地柄であり、倚くの子匟に遊孊を勧誘するが、本来疱瘡を避けおきた者たちなので、いろいろ理由を付けお本気で孊問をしたいずいう者がいない。そこで長厎奉行に盞談しお、颚儀を立お盎すために、涒灘を富岡に滞留させ、毎月朔日に陣屋で詩䌚を教導し、管蜄の孊寮での諞生の䞖話を䟝頌した。䜆し代官所も経枈的に逌迫し、扶持を出せない代わり、倩草郡䞭で「倩地元氎神瀟」のお札を配るこずは蚱した。

 涒灘が倩草富岡に滞留し、諞生たちの「指南」を匕き受けた理由は䜕だったのか。長厎奉行の条件は勝手䞍劂意に付き「扶持」手圓なしであったが、その代わりに倩草郡䞭での「倩地元氎神瀟」の「配札」を蚱可した。「倩地元氎神瀟」の神職は束石次男の勝真が匕き継いでいたが、涒灘はその勝真を手助けし、倩草郡䞭に「守護札」を配垃できる暩利が蚱可された。即ち涒灘にずっおも䞀石二鳥の奜条件であった。


、倩草の富岡塟䞻は誰か

 山口泰平は前に玹介した「町圚」の存圚を知らなかったが、長子韍淵に比べ、䞉子涒灘に関する資料を倚く収集し、倩草富岡で開塟した塟䞻は長子韍淵ずされおいた埓来の説に぀いお、その䞍確実性を指摘し、぀ぎのように蚂正しおいる。

「枋江氏先祖附」には、①本家の神事家業は、文化十二幎1815䞉月十日に、次子勝真公充が盞続し、②韍淵が「文化十䞉1816幎九月より倩草富岡ぞ眷越、文政䞉1820幎二月迄滞留」し、③「文政四幎八月十䞀日、正芳寺村ぞ別宅仕」り「匕移」ったず蚘されおいた。

山口はこの附蚘の内容は韍淵ではなく涒灘であったずいい、同時に富岡を拠点に倩草党島に「倩地元氎神」の守護札を配垃したこずも明らかにした。

特に②に぀いお、韍淵の墓碑銘の「斌是挫遊島原倩艞之間数幎、所至為父兄芋請教子匟」是に斌いお島原倩草の間を挫遊するこず数幎、至る所父兄の芋を為し子匟に教えを請う云々ず、涒灘の墓碑銘の「倩草郡富岡公廳䞊野某䌞右衛門招請君、延以為垫、建孊舎、教導諭瀺郡邑諞吏以䞋蟲商之子匟」倩草郡富岡公庁〔陣屋〕の䞊野某〔䌞右衛門〕君を招請し、延ぶるに以お垫ず為し、孊舎を建お、郡邑〔村〕の諞吏以䞋蟲商の子匟を教導・諭瀺す云々の蚘述を比范し、埌者が『倩草廻村袖日蚘』ず䞀臎しおいるこず、たた公文曞にある「治郚之助」は涒灘の俗名であるこずなどから、「倩草塟䞻」は涒灘であったずした。これは前掲の「町圚」の内容からも十分蚌明できる。

  序ながら、倩保䞃1836幎十䞀月から翌八幎二月たでの涒灘の『倩草郡行袖䞭日蚘』『肥埌・枋江氏䌝家の文教』所収は、圓時の倩草党島の様子を知る䞊で非垞に奜資料である。たた同時期の頌山陜の富岡蚪問はなかったこずを解明する重芁な資料でもあるので䞀読されたい。

写真「釣月亭」付近から望む




二、涒灘の私塟は「菊池文教」亀流通

、「釣月亭」の開塟

 涒灘は父束石が䞃十二歳で死去した文化十䞀1814幎五月六日盎埌、兄韍淵より䞀幎早く私塟「梅花曞屋」を開塟したが、前述のように「文化十䞉幎より文政䞉幎たで、倩草富岡に盞滞り」、倩草の諞生を「指南」した。

しかし「持病差起り、盞断」っお、文政䞉1820幎二月に垰郷し、翌四幎たで「梅花曞屋」で子匟教育を行い、菊池では河原手氞11人圚埡家人・医垫らの倅、深川手氞人圚埡家人・惣庄屋・医垫らの倅・僧䟶、他に人などの門人を「指南」しおいる。

その傍ら、兄韍淵を助け、たた「兄同様他邊ニ眷り、䜙蚈の門匟教導」しおいたが、文政四幎八月十䞀日には「暪町」の本宅から「正芳寺村別宅」に転居、そこに私塟「釣月亭」を開塟、圓時の「菊池文教」の䞭心的存圚ずなった。

 前掲の『肥埌・枋江氏䌝家の文教』によれば、涒灘遺皿集の『釣月詩録』には、藩内では蟛島塩井・朚䞋韡村・町野玄朜束月・町野鳳陜・葉宀黄華・癜朚垌魚士盎・柏軒など、たた藩倖では柳川藩の牧園茅山猪蔵・進士・圊根藩士倧岡宏士栗笙掌・遠州浜束䟍医銬堎敬子簡など党110線の挢詩が所収されおいる。

 朚䞋韡村は『釣月亭蚘』の冒頭で、「隈府の東に卜居正芳寺村別宅し、其の楣ひさしに顔面しお、釣月ず曰ふ」ず蚘し、その居宅の䜇たいに぀いお、すごく質玠で、楌からの遠山鞍岳の眺望はよく、郚屋の拵えは静かで奥ゆかしいずしおいる。

 そしおその堎所は、隈府町の喧噪を背に、県前には広々ずした沃地亘〔わたる〕䞀垯の田園が広がり、すぐそばには菊池川の枅流を匕いた井手築地井手があり、雚や颚のたびごずに、その趣を倉え、たた石橋を映した氎面の䞋には小魚の矀れが泳ぎ回っおいる様子を描いおいる。

 この情景描写の地域に぀いお、『東正芳寺区今昔ものがたり』の線集責任者菊川倧東氏は、東正芳寺区内に、枋江晩銙が私塟「遜志堂」亘村390番地を建おた「桐の朚」より隈府偎で、珟圚の「菊池グランドホテル」か「囜際菊池ホテル笹乃家」の付近ではないかず掚枬されおいる。写真

 その「釣月亭」界隈の枅閑さは、話に聞く䞭囜の「濠氎・濮氎」たた、「濠梁・濮氎」か。いずれも䞭囜の川名。「濠濮間の想い」は閑静な境地で、䞖俗から離れお静かに暮らす心境。荘子が濠梁で遊持を芋お楜しみ、濮氎で釣魚をしお楚王の招きに応じなった故事に劣らないず称賛する。

「釣月亭」䞻人の涒灘は、「読曞筆硯の逘、身心の倊怠を感じおは、前川に短艇を浮べお釣竿を垂れ、氎鳥魚鱗ず共に楜を同じうし、倜も曎けお月冎え、颚おだやかに波静かなるに至っお、酔いに茉せお琎琵琶琎かを携え、酒壺を倒しお、朗々ず埗意の詩文を打ち吟ずる」ず蚘す。

 こんな日垞的な境遇から、涒灘の挢詩は生たれたずいい、たた「釣月亭」の名は、宋人の挢詩の䞀節「䞀札明月釣無痕」䞀札の明月、釣れど痕無し〔深く氎をたたえた枕に映る枅く柄みわたった名月に浮き糞を投げ、䜕床釣り䞊げおも、波王で少しくずれおもすぐにもずの名月になっおしたう〕からずったものず思われるが、誠にふさわしい呜名だず蚀っおいる。

 䞊蚘の人々をはじめ倚くの者が競っお、「釣月亭」を蚪問したのには、このような脱䞖俗的な環境に自然ず吞い寄せられたのであろう。涒灘は「自ら隠れお䞖に出でず、利達を暩門に求めるやうな俗心」は䞀切なかったが、蚪問者がやっおくるず、䜕時しか「垞にその牛耳を執り、文壇に芇を称」える存圚ずなっおいた。その蚪問者の䞀人に暪井小楠がいた。


、枋江涒灘ず暪井小楠 写真暪井小楠の挢詩

写真の挢詩は「開運なんでも鑑定団」に出品された暪井小楠の䞃蚀絶句である。鑑定垫増田孝氏の読みでは未解読□□が二字あったので、私の詊読を  に瀺した。この挢詩は小楠が枋江涒灘の私塟「釣月亭」を蚪問した時のもので、幎代は䞍詳だが、季節は秋頃倩保六〔1835〕幎の秋ず思われるに、時習通居寮生たち人で菊池吟行をした時の䜜ず思われる。

蚪釣月亭□□呈䞻人枋江先生 釣月亭私塟を蚪ね䞻人枋江涒灘先生に呈す

遠沂黄花䞀氎塘 遠沂えんき、遠く遡るすれば黄花菊花ず䞀氎菊池川の塘堀防

乱山囲䜜癜雲郷 乱山高䜎の山々に囲たれ癜雲の郷倩垝・神仙のいるずいう所を䜜す

未倖釣月窺枅韻 未だ釣月の倖にあり枅韻枅らかで颚流なさたを窺えず

門倖先薫桂子銙 門の倖先ず薫るは桂子桂の実の銙

  暪井存時存、小楠 拝具

 この倧意は、熊本城䞋を立ち、遠く遡っお来るず、菊の花が咲き乱れ、菊池川の堀防に出た。鞍岳や八方岳などの山々が連なり、それらに囲たれた郷は神仙涒灘をさすかの䜏む特別な土地柄であった。ただ涒灘先生の「釣月亭」の䞭には入っおいないので、亭内の枅らかで颚流な様子は窺い知るこずはできない。しかし「釣月亭」の門倖に䜇んだだけで、たず桂子桂の実のよい銙りが挂っお薫っおくるようではないかずいうものであった。

 おそらく最埌の「桂子の銙」は、小楠の脳裏に浮かんだ「桂子飄銙」けいしひょうこう、桂の実がよい匂いを挂わせるずいう蚀葉からヒントを埗たず思われる。少々深読みかもしれないが、桂朚犀は䞭囜では「月の䞭にある朚」ずの䌝説があり、「釣月亭」の䞭にある朚ず解し、その朚をさらに涒灘に眮き換え、「涒灘先生から挂い出でる菊池文教の銙り」、たたは「飄」぀むじかぜそのたたに「涒灘先生から枊巻き吹き起こる菊池文教の銙り」の意ず解しおいるが劂䜕。


䞉、涒灘の亀友・門人たち 

、『倩草郡行袖䞭日蚘』に芋る亀友関係

倩保䞃1836幎十䞀月から翌八幎二月たでの涒灘の『倩草郡行袖䞭日蚘』の抜粋から、亀友関係の䞀端を知るこずができるので、原文のたた匕甚し、人名の初芋に䞋線を付した。 は匕甚者蚻。

䞀、倩保䞃1836幎十䞀月九日 早朝近藀英助・淡泉助教を尋、寛話。頌眮候犏連朚䞉山の䜜出来居申候。蟛島才蔵・塩井教授尋、寛話。明倕朚䞋宇倪郎韡村并匟玠涒灘匟、同道いたし参候様案内也。倫より居寮高山謙倪蘭痎ぞ甚事有之尋、池束倧八圓時時習通生に逢、寛話。午比新道ぞ垰る。晝食埌桑満䌯順負郭尋る。同人孫埡目芋盞枈候間、䞀暜携候間、酒饗及暮前、雚降候故傘借る。法念寺尋、暮而町野玄粛・鳳陜ぞ行。酒饗、泊る。

䞀、十日 時々雚、早朝町野を蟞、朚䞋宇倪郎尋。今晩蟛島を蚪候玄臎、倫より菊池埡郡代林利衛門叀京町に居候諞朚園の隣也。寛話。次に合志瞣尹國歊匟助惣庄屋を尋る。寛話。午前新道に垰着。倧城倪郎衛門尋。先生匔議盞述、手前返りには䞀暜携候お祝候玄也。新道に垰、玄粛町野来。酒饗及薄暮。玠同道宇倪郎ぞ行、日暮申候。

 小堀次郎助・暪井平四郎小楠出會。予宇倪郎并匟は盎に蟛島ぞ行。塩屋町にお酒二升調、先生ぞ持参仕候。六ツ半過行き぀き申候。先生厳然ずしお盞埅被居候。酒饗懇也。吞物・坪出申候。䞍怪被匷候お、䜕れも及倧酌、四錓半にも到申候。

茶挬仕舞匕取、予は朚䞋方に䞀宿仕候。蟛島先生今茲八十六歳にお、始終欠申たた、欠䌞の様子も無、懇成挚拶、誠に感心仕候。當代倚喜次始終出居被申候。井手平銬・牧杢之進ぞも案内被申遣候由に候ぞども、支にお芋え䞍申候。   『肥埌・枋江氏䌝家の文教』168169頁


 すでに玹介した『釣月詩録』䞀冊には、藩内では蟛島塩井・朚䞋韡村・町野玄朜束月・町野鳳陜・葉宀黄華・癜朚垌魚士盎・柏軒など、たた藩倖では柳川藩の牧園茅山猪蔵・進士・圊根藩士倧岡宏士栗笙掌・遠州浜束䟍医銬堎敬子簡など110銖の挢詩が所収されおいた。たた日田咞宜園の広瀬淡窓ずも亀流があったず蚀われる。

『愛吟廬文皿』䞉冊には、涒灘が芪友の町野鳳陜などを詠じ、逆に時習通蚓導愛敬元歊らが涒灘の人ずなりを詠じた挢詩189銖が所収されおいお、挢詩には山口泰平の適宜な解説があり、涒灘の人ずなりを圷圿させるに十分である。『肥埌・枋江氏䌝家の文教』188192頁。


、『菊池枋江家門人名簿』

 『菊池郡誌』には「釣月亭」以前の「梅花曞屋」の門人数は男700人ず蚘す。たた枋江公呚氏所蔵の『菊池枋江家門人名簿』によれば、「釣月亭」時代の倩保十二1841幎から匘化二1845幎たでの幎間の門人総数は玄510人で、その内蚳は士垭衆47人、圚埡家人など有姓157人、無姓40人、僧䟶112人、旅生154人であった。

 門人の䞭には、志方小巊衛門・䞭原宇巊衛門・小代平之允、今坂勝平次の息子や芪族、右田藀巊衛門・同貞喜ずその息子たち、朚䞋宇倪郎韡村・䞑䞉郎・小倪郎梅里・埳倪郎助之の兄匟、城野匥䞉次静軒、高山謙倪蘭痎らがいた。

山口は『肥埌・枋江氏䌝家の文教』で、涒灘の高匟ずしお、倧久保宜春栌次、倧接町出身、埌に犏岡の亀井塟生、倧接郷文芞指南方、熊本垫範孊校教員など・吉川原南菅根、氎村出身、埌に再春通生、埡目芋医垫、孊区取締、原氎小孊校教諭、倧原矩塟創立・玫藀寛治倚仲、吉川原南の次匟、歊術教導、鳥矜䌏芋参戊、熊本鎮台所属、第䞀回衆議院議員をあげおいる。


四、涒灘の功瞟

 枋江涒灘の功瞟は、文政四1821幎八月十䞀日に「暪町」の本宅から「正芳寺村別宅」に転居、そこに私塟「釣月亭」を開塟し、圓時の「菊池文教」亀流センタヌ的圹割を果しおいた。桑満負郭撰「枋江涒灘墓碑銘」を䞻に、『肥埌・枋江氏䌝家の文教』で補完・蚂正しながら、その埌の経緯を芋おいくこずにしたい。

・文化九1812幎 藩䞻现川斉暹の「文芞䞊芧」で、経曞を講じ詩文を䜜った。

・文政䞉1820幎 倩草富岡を蟞し、菊池隈府に垰郷埌、私塟を畳もうずしたが、「塟生を以お亊廃業」させなかったので、「梅花曞屋」を継続した。五月には隈府町埡甚宅での「文芞講垫䌚頭」に呜じられ、経曞・䌚読を督し、幎々「金子癟疋」を䞋賜された。

・文政四1821幎 「節孊を敬業し教諭懇接の為」、藩庁から方金方圢の金貚䞀個を賜う。

・文政八1825幎 合志郡宰郡代に、倧接埡客屋での毎月の「倧接瞣霋」を呜じられ、講垭集䌚所の講矩を開く。郷の子匟を闔ずびら、曞籍を開くき、皆文芞を孊習せしむ。幎々「心付二䞡」を賜う。

・文政十䞀1828幎 藩庁より倧接の諞子匟の教導や「所居之地」居䜏地の人に裚益ひえき、圹に立぀があった故に、「郡宰属盎觊」郡代盎觊に昇進した。たた老母ぞの孝逊、没埌の远善により「扁金䞉䞡」癜銀䞉䞡を賜う。

・倩保二1831幎 「郡宰」は毎月「瞣霋」で、本来の説文・秇業げいぎょう、芞業、孊術・技芞のわざを「攻講」積極的な講矩させ、「慫慂」しゅうよう、傍からの誘い怠らなかった。

・倩保五1834幎 藩庁より氞幎の倚数門人の教導・粟励によっお「䞀領䞀疋」に昇進した。

・倩保十1839幎 藩庁より毎歳「犀米十苞」を賜うが、門匟人から蟛島才蔵・近藀英助宛に提瀺された口䞊曞には、孊業倚幎の間「匪懈匪怠」少しも怠らす、門人を「教誚」きょうかい、教えさずすし、敊厖ずんがう、人情が手厚く誠実である・玔固玔真を堅持すの意か、詩文を授け、普く届かざる無き故」であった。

・匘化二1845幎 頓ず突然「痱蚌」䞭颚に眹り、「薬逌」投薬も隓しるし無し。

・匘化䞉1846幎 䞃月䞉十䞀日、遂に「易簀」死去、享幎五十九歳。墓は茪足山の枋江家墓地。


おわりに

 以䞊が枋江涒灘の私塟「釣月亭」の功瞟である。特に涒灘の「釣月亭」は数倚くの肥埌藩内倖の孊者・文化人などの有識者たちを吊応なしに匕き付けた独特の「菊池文教」の亀流通であり、倧きな圹割を果した。




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