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[2019/9月号]中世を駆け抜けた「風雲菊池一族」が、今よみがえる ~月見殿~

平安時代から室町時代後半までの約450年にわたって菊池地方に勢力を持った一族の物語



画・橋本眞也(元菊池市地域おこし協力隊) 解説・堤克彦(熊本郷土史譚研究所長・文学博士)


 古来「月」は貴賤上下を問わず、みんなで一緒に愛でるものでした。娯楽が少なかった時代に、先人たちは「望月」ばかりでなく、満ち欠けする「月」を三日月・十三夜・十五夜・十六夜・立待ち・居待ち・寝待ちと名付けて、それぞれの月の姿を楽しみました。何と優雅な心だったのでしょう。

 この絵は守山城の二の丸(城山公園)の一隅に、菊池武光が建立した「月見殿」での観月の様子を描いたものです。いまこの場所に「観月楼」が建てられていて、近くには江戸時代の藩校「時習館」訓導(今の大学教授)で書家の大槻弾蔵筆の「月見殿跡」の石柱が立っています。

 『嶋屋日記』には、今から195年前の文政八(1825)年に、隈府町人・和漢学者・文化人それに在御家人たちが「出銅」(拠出金)して、前の「月見殿跡」の他「菊之池跡」「菊之池城跡」「内裏尾跡」「孔子堂跡」の都合五つの石柱を建立した記事があります。これらはいずれも現存していますので、それらをみんなで一緒に探すのも面白い郷土の歴史の再発見と思っています。

 この「月見殿」では武光当時からただ「観月」だけでなく、「御能」や「御神楽」も演じられた舞台でした。菊池市の姉妹都市宮崎県西米良村には、懐良親王と菊池武光などの「貴種入山伝説」があって、現在でも「村所神楽」をはじめ各地域に神楽12座のうち8座で、懐良親王・菊池氏関係」の演目が舞われています。

「小川神楽」で使用されていた米良神社の「菊池殿宿神」、(きくちどのしくじん、写真)は鎌倉作で、懐良親王が「米良入山」の時、親王を慰めるために菊池氏が捧持した武光愛用の能面とされ、米良氏が一時期隈府の「守山城」に居城した際、菊池家から下賜されたものと言い伝えられています。

 また中武安正著『菊池氏を中心とせる米良史』(2007年 第7版)には、この「宿神」は九州御下向当時、幼少の親王を慰めるために、「菊池家や随従の公卿たちが宮中に伝わる神楽を舞」い、また「陣中でも此の神事を行わせられた」とか「菊地城内月見の御殿では御能も遊ばせられた」と記され、「米良御入山後も神楽を御続けになり、今に伝わる神楽はその当時の御神楽である」とされています。

 個人的な見解ですが、もともと「神楽」は修験者、「能」は能楽師によって伝えられたものでしたが、西米良村では「神楽」と「能」が非常に近い関係に見られていたのか、江戸初期に修験道の「法印」号を持つ米良秀精(ひであき、泉林坊)が、「能」と「神楽」を合体して整備し直した演目が多いように思われます。

 懐良親王を慰めるために始まったとされる隈府の「松囃子能」と米良神社に伝わる「月見殿」で使用された「宿神」は、京の都から南北朝期に一緒に隈府に伝えられた可能性があります。能楽の原形とされる「松囃子能」はもともと予祝神事の能舞でしたが、それにもともと能面の「宿神」を神楽面として使った神楽が一緒に「月見殿」で舞われたことも考えられます。今後の研究に期待しています。

 もっと詳しく知りたい方は、執筆者の2014年発行「くまもと郷土史譚つうしん」第42号「受け継がれた中世菊池氏(2)-「米良山系神楽と米良秀精の整理」をお読みください。(禁無断転載・使用)

写真「菊池殿宿神」(西米良村歴史民俗資料館蔵)

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