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[202209] 歴史アラカルト「菊池の偉人・賢人伝」


とっておきの 熊本・菊池の歴史アラカルト (15)

『菊池の偉人・賢人伝』⑥-二代目渋江松石の事績

              堤 克彦(熊本郷土史譚研究所所長・文学博士)


写真 源順編著『倭名類聚鈔』の郷名

   

 渋江松石(公正・宇内 1743~1814)は、紫陽の養嗣子となり、学問は紫陽に学びました。紫陽が松石を後継者としたのは、特に地理に精しかったからでした。その松石は、また尊王の志も厚く、また宗伝次とともに「菊池正観公神道碑」を立てるなど、菊池氏の顕彰のさきがけとなっています。(前号参照)

 松石は、家塾「星聚堂」(光り輝く者たちの集まる建物の意か)を開き、その門弟は四百余人に及び、肥後藩の藩校「時習館」や「再春館」の訓導(教授クラス)などになった門弟がいました。特に隈府町の桑満負郭(伯順、侍医、再春館訓導)・葉室黄華(世和、中小姓、藩侯侍講)・町野鳳陽(玄粛、侍医、再春館訓導)、山鹿郡の池辺丹陵(謙助、時習館助教)・熊本の山室宗全(菊陵、侍医、外医長)などは有名です。

松石の著作には、寛政六(1794)年の『菊池風土記』や享和元(1801)年の『肥後郷名考』は、肥後10代藩主細川斉茲(なりしげ)に献上、「永青文庫」に所収されています。また『洙泗正旨』・『古学規』・『儀礼凡例考纂』では、孔子は仁よりも礼を重んじたと主張しています。

 寛政六(1794)年の『菊池風土記』(上中下)は、天和元(1681)年に死去した宗善右衛門尉重次著『菊池温故』(享保十七〔1732〕年、孫の宗四郎写)を底本に、安永元(1772)年の森本一瑞編著『肥後国誌』などにより増補したものですが、『菊池温故』とともに、江戸期の菊池を知る上で、重要な古文書(冊子物)で、当時の公文書なども収録されています。私は中世・近世の菊池研究に不可欠な古文書として非常に重宝にしています。いずれも活字になっていますので是非一読されたい。

 また享和元(1801)年の『肥後郷名考』は、平安中期の源順編著『倭名類聚鈔』(百科事典)にある全国の「郷名」のうち肥後国の菊池郡九郷(写真)についての考察を試み、江戸当時の村名(ゴチ)に比定しています。(下表)

○城野(きの、今木野と書く) ○水嶋(みずしま、古へのまま、書き違いもせず) ○辛家(かゑ、今加恵と書く) ○夜関(やけ、今夜間と書く) ○上甘(かみあま、同段横音〔み→に〕でかにあな、今蟹穴と書く) ○子養(こかい、今は濁りてごかい、今は五海と書く) ○日理(わたり、今は輪足と書く) ○山門(やまと、今の岩本ならんか。今暫く是に定む) ○柏原(かしわら、柏村と原村で、一郷とするは誤なり)

その特徴は、郷名の漢字をすべて「かな」に直して、郷名には音便化が起こり、その方法は「同行通音」や「同段横音」の法則に従っていることに着目・重視していました。この方法論は、江戸期の著名な本居宣長の『地名字音転用例』よりも、論理的でレベルの高いものです。今日の地名研究にも十分役に立つもので、私も参考にしています。

 またこの菊池地域の郡名はもともと「久々知」(くくち)であり、古代には「鞠智」の漢字を当てて(くくち)と発音していました。奈良時代には「菊池」の漢字に変えられましたが、やはり(くくち)読みでした。それが何時しか「同行通音」(くくち→きくち)によって、「菊池」の漢字通りに(きくち)と読むようになりました。

他に「菊之池」の「之」が省略されて「菊池」となったとする説もありましたが、松石は「後世付会の説」即ち「こじつけ」と主張し、その具体的に論拠をあげて否定しています。詳しくはHPをご覧ください。(無断転載禁止)



HP用

〇堤克彦論文「『鞠智城』と菊池郡の郷名」―地名から考察する築城の目的と百済難民の集落―(熊本県社会科研究会「研究紀要」第50号〔2020年5月〕所収)の一部を掲載します。



「鞠智」(久々知)地名を考察する


 亡命してきた「百済難民」たちは、右も左も分からぬ菊池川上中流域の内陸部の「米原台地」に、安全な「百済難民」保護施設を兼ねた「朝鮮(百済)式山城」に住むことになった。その付近には先住の日本人たちが生活していて、彼らは居住地域を「くくち」と言っていた。

 「くくち」の地名の起源については後述するが、地名はそこに住む者たち全員がその地名を共有し、互にその場所・地域を確実に認識・確定し合えるために不可欠なものであった。それは亡命してきた新入の「百済難民」たちにとっても同様であり、この「くくち」を自分たちの地名としなければならなかった。

 そのためには当然、和名の「くくち」を正しく発音し、日本・百済の両民族が「くくち」地名を共有する方法を見出さなければならなかった。しかもさらに今度は「百済難民」同士の間でも使い、さらに他の地域に居住している百済人たちと連絡を取り合う時、彼らも相手に「くくち」地名を伝えなければならなかった。

そのためには正しく和名「くくち」を発音するだけではなく、誰が読んでも「くくち」と「百済音」で正しく表音する必要があった。「百済難民」たちは和名「くくち」の正確な発音を漢字表記に求めた。それが「鞠智」であり、「くくち」に最も近い表音漢字(借字)であったと思われる。以下この前提に立って論じていくことにする。

 なお自説の理解を容易にする意味合いもあって、それぞれに関係する図・表などを入れて置いたので参考にしてもらいたい。


一、「鞠智」から「菊池」への変遷

これからは拙著『肥国・菊池川流域と百済侯国』(トライ出版 2014年)に示した見解を基盤に、さらに新たな自説を展開していきたい。


1、和名「くこち」地名の起り

①「茂賀の浦」枯渇後の自然地形地名「くこち」(く・こ・ち)

もともと「くくち」は自然地形を表す「くこち」の訛音であった。「くこち」は「く・こ・ち」からなり、「く」は「クユ」(崩壊地)、「こ」は「湖」(みずうみ)の地理的地名の用語で「水+胡」(巨に通じ、大きな水)、「ち」は場所を示す接尾語(み、ふなど)の意であった。


②菊池平野(菊鹿盆地)の前身


具体的には、「くこち」は阿蘇土石流堆積物の陥没地(「く」)、山鹿市の鍋田-志々岐間の石壁により、菊池川・迫間川などの流れを塞き止められた「茂賀の浦」の大湖沼(「こ」)、その場所(「ち」)であり、「茂賀の浦」の石壁崩壊後、その大湖沼は干地となり、現在のような広大な菊池平野(菊鹿盆地)が形成された。


2、和名「くくち」の表記変遷

①自然地形の和名「くこち」

前述したように、「くこち」が訛音して「くくち」となり、「百済難民」同士の間で必要・不可欠な和名「くくち」を「呉音」(百済音・吏読)で「ククチ」(最も近いハングルでは「국치」と表記)と発音、そのより正確な表音漢字(借字)として「鞠智」と表記したのである。


②呉音(百済音・吏読)「ククチ」表記と表音漢字「鞠智」について

韓国の古代日本史の研究者間では「鞠智」(국치)説に対して「国地」(국치)説があるらしいが、非常に政治的な要素を含む地名である。自然地形に依拠した和名「くこち→ククチ」(국치)の起源からすると付会説に近いのではないだろうか。

また後述する渋江松石のように「鞠智」(くくち)の好字「菊池」に変えられた説はごく自然であるが、「国地」(ククチ)説の場合、なぜ「菊池」の好字が当てられたのか、その理由と説明が必要である。


3、「鞠智」→「菊池」への変遷

「鞠智」が何故「菊池」に変わったのかについては古来種々の説がある。まずそのいくつかを紹介しておきたい。


(1)「菊池」地名起源説

①紺野健二氏所蔵『菊池家系図』

菊池氏初代則隆の下向に関し、「後三条帝、延久二(1070)年庚戌九月、肥後国菊池郡並びに御剱を賜ふ。正四位上肥後守に任ず。勅許を以て獅子牡丹を幕紋と為す。菊池郡に下向す。承保元(1074)年甲寅二月、同国菊池郡深河村に築城し住す。地名を以て菊池氏と称す」と記されている。すでに11世紀後半には「菊池」が郡名として使用されている。


②江戸期の「読本」作家曉鐘成著『鎮西菊池軍記』・「菊池氏家譜歴代略記」

「菊之池」の起源について、「郡中に深河村といへる地方、頗る其の要害最上なりと、此の地に城郭を居(すへ)られぬ。然るに此の深河村の中、巽(南東)にあたって広大なる池あり。其の池の形菊の花のごとくにして、池辺一円に数種の菊生ひて、黄紅白に爛漫たり。爾有(さある)によって、此の池を菊の池と号し、国中の勝地とし、郡名をも号(なづ)けそめんとなん言い伝へり」と記す。ここでは「菊池」の郡名が「菊之池」の「之」が脱落・短縮したものとしている。


渋江松石編著『肥後郷名考』

③井沢蟠龍編著『佐々伝記』付録「歴代事蹟略」下

「後三條帝」の項に「延久二年左近将監藤原則隆、肥後国菊池郡ヲ賜テ下向シ、同郡深河村ニ城ヲ築テ住ス。コレヲ菊城ト号ス。故ニ菊池ヲ以テ称号トス」とある。すでに「菊池郡」があって、それにちなんで「菊城」・「菊池姓」にしたとある。

後掲の渋江松石は、この根拠を「土俗の説に、菊池の郷名ハ、郡内深川村に名高き池有、其の形菊花に似たれは、郡名にも是を用ひたるよし申伝ふより、井沢長秀も此の説を取りて」、いずれもその根拠は「菊之池」から「菊池」になったと記している。


④渋江松石編著『肥後郷名考』での見解

渋江松石はこれらの「菊之池」→「菊池」説を、つぎのように「後世伝会の説」と批判する。その根拠として「案するに萬葉集に菊の歌見へす。古今和歌集にて初めて菊の歌を載す。然れは今弄ふ菊ハ今の京(平安京)ニなりて、もろこし(唐)より渡りたるにハあらすや。然る時ハ、元明帝(奈良時代)の比迄ハいまた菊といふものハなし。さるに菊の池ハ池の菊花に似たるより名付け、それを又郡名にも取り用ふたるとは、後世伝会の説なり」と否定している。

そして正しくは「和名類聚鈔に菊池を久々知と訓ずれば、郡名実はくくちなるを、元明帝(在位

701~715)郡郷名改め給ひし時、好文字をゑらび申すべきよしにつひて、くゝちもくときと同音(同行通音)故に、菊池といふ字を借りて、くゝちと訓ぜたるを、後世いつしかうつりてきくちといふ事より、菊花の事に申しなせるは、菊は借字なる事と菊花の上古になかりし事をおもひ合せざるの誤なり」との説を展開している。


(2)「菊池」(きくち)読みのはじまり

「菊池」を「きくち」と発音また読むようになったのはいつ頃からか。桓武天皇(在位781~806)が、延暦十二(793)年四月に、明経の徒や仏徒で「漢音」を習得していない者の得度を禁じた勅と関係しているのではないか。即ち漢字の「呉音」をすべて「漢音」で発音するように命じた平安初期ではなかったかと推測される。その変遷をまとめたのがつぎの表である。


「鞠智」(くくち)や「菊池」(きくち)の変遷

年 代 漢字表記と読み 音 韻 適     用

くこち(地名) 不明 「茂賀の浦」の湖沼(跡)の意か

AD3C後半 狗古智卑狗(くくちひく) 呉音 「魏志倭人伝」の「狗奴国」官人名

7C後半(698) 「鞠智城」(くくち) 百済音 天智二(663)年八月の「白村江の敗北」後、

                               『続日本紀』文武二(698)の記事

8C初頭(713)「菊池」(くくち)に変更   百済音    東大寺大仏殿回廊西脇隣接地出土の「木簡」に「肥後国菊地                                            

                         (まま) 郡口(子)養郷人」 

8C後半(792) 「菊」の漢音は(きく)のみ     漢音・百済音  延暦十一(792)年桓武天皇」の「漢音」使用の詔、明経の

                  の併用   徒に呉音を禁じ、漢音習熟を命じ、翌年仏徒にも漢        

                       音を習熟さす。

9c中・後半 「菊池城院」(くくちじょういん 漢音・百済音 天安二(858)年閏二月「菊池城院兵庫の鼓自ら鳴る」、

(858/875/879)  きくちじょういん。前者の読みが正し の併用   丁巳又鳴る」、夏六月「肥後国菊池城院兵庫の鼓ら自ら鳴  

         いと思われる)                   り、菊池城の不動倉十一宇火あり。(『文徳実録』)

                                   貞観十七(875)年夏六月「群鳥数百、菊池郡倉舎の萱草を

                        噛み抜く」、元慶三(879)年三月「肥後国菊池郡兵庫の戸鼓

           自ら鳴る」(『三代実録』)             

10C前半 「菊池郡」(久々知と訓ず)    漢音・百済音  源順編纂の『倭名類聚鈔」では、「菊池郡」は「久々知」

(931~937) 平安前期、「鞠」は(きく)    の併用    と訓ず。漢字表記が「鞠智」から「菊池」へ変わっても

   読みで、「まり」(毬)の意        読みは「百済音」(くくち)のまま

  「菊」は(きく)の読みで、植物。

   和名は「かはらよもき」

   「かはらおはき」

11C後半 「菊池」(きくち)       漢音   初代菊池則隆の下向説、「菊の池」の短縮形(付会伝説)

-1070

12C以降 「菊池」(きくち)       漢音     以後「菊池氏」「菊池郡」の使用

17C前半 「菊池」(くくち)読み   百済音     江戸初期制作「日本地図屏風」)(「行基図」)に「くくチ」                                         

                  の誤り



この表に記した「呉音」(百済音)と「漢音」の日本への移入時期を示したのが、右下の図(野間秀樹著『ハングルの誕生』 平凡社新書 2010年)である。参考までに掲載しておきたい。

「鞠智」は8世紀初頭の奈良時代に好字の「菊池」に改められたが、そのまま「くくち」と読まれた。しかし8世紀後半の平安初期には桓武天皇が「漢音」読みを奨励したため、「菊池」の「きくち」読みが新たに登場した。


しかし後述するように、10世紀前半の平安中期の『倭名類聚抄』のように、奈良初期に元明天皇の詔により好字の「菊池」に変えられても、少なくとも150年間はずーっと「久々知」(くくち)読みが続くことになる。如何に勅令で地名「菊池」の漢字表記に変えても、以前として「くくち」読みが行われたことは、旧来の読みが容易に変わりにくいこと好例である。

その「菊池」が「漢音」で「きくち」と読まれ始めたのはいつ頃からだったのか。前掲のように、11世紀後半に初代藤原則隆が深川の「菊之池」付近に下向・居住した時からとする説があるが、江戸期の渋江松石の指摘通り、学問的にはまったく根拠のない「付会伝説」の類であった。

しかし、ここで問題にしたいのは、「菊池」が「菊之池」の短縮形と信じられたことである。この背景には、「菊池」が「呉音」の流れを引く「百済音」で「くくち」と読まれていたのが、すでに忘れ去られてしまっていたことと大いに関係があったと思われる。

その一方で、「菊池」の「漢音」読みの「きくち」 が一般化し、また「菊池」が「きくち」と読まれても、何の違和感もないばかりか、前述した「菊池」の起源を「菊之池」の短縮形として、「菊池」が姓氏や郡名に使用されても、当然のことと信じられた状況が到来したのである。その時期として、藤原則隆の菊池下向説とは関係なく、いまのところ11世紀後半が一番妥当ではないかと考えている。

しかし数年前に「長崎歴史文化博物館」の展示で見た江戸初期製作の『日本地図屏風』(「行基図」)には肥後国十四郡名がカタカナで記され、菊池郡に該当する地名に「ククタ郡」(タはチの誤筆で「ククチ」)と書かれていた。そうすると、17世紀初頭でも「くくち」読みが残っていたことになる。今後の研究課題としておきたい。

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