top of page

[2025年8月号] 寄稿「私の戦後80年」

                        

 私の戦後80年 坂本 敏正

                        

令和7年は、昭和でいえば昭和100年、敗戦から80年という区切りのいい年だ。

昭和18年8月生まれの私は、戦後80年の歩みとほぼ同じ、そこで自分の体験から特に印象に残っている事柄や事故等で、戦後の80年を振り返ってみた。

 

①    昭和20年7月1日と8月10日の熊本大空襲。母の背に負われて逃げ惑った話を母からよく聞かされた(当時、熊本市水前寺に住んでいた)。

②    昭和25年4月城北小学校入学。朝鮮戦争勃発、米ソの水素爆弾実験競争等不穏な情勢で、日本はどうなるのかと恐怖心を抱いた。はだしやゴム草履で通学し、「農繁休暇」と言って、田植え時と収穫期には学校は休みだった。     

我家は、昭和48年家を新築するまで、昔ながらの藁 屋根で五右衛門風呂の暮らしをしていた。

③    昭和28年6月26日、小学4年生の時熊本大水害。市内で商売をやっていた叔母の店が被災したので、父と見舞いに。初めて乗った菊池電車の窓から、帽子を飛ばしてしまった。市内至る所に泥土がうず高く積み上げられて、異臭を放っていた。

④    昭和30年前後に昭和の合併が進み、私の住んでいた菊池郡城北村は鹿本郡菊鹿町に。その結果、国史跡鞠智城の所在地が菊池郡から鹿本郡へと(平成の合併で山鹿市に)。私の住んでいた集落ともう一つの集落は、菊池市に編入されたため、中学2年生から隈府中学へ。一学年90数名の学校から350余名のマンモス校へと。この時のカルチャーショックは大きく、苦労した

⑤    昭和33年 中学3年生の時、済々黌高校が、春の選抜高校野球大会で王貞治在籍の早稲田実業を破って優勝。九州勢初の優勝に大興奮!非常に勇気づけられた。関門トンネル人道車道開通も同時期だった。

⑥    昭和39年大学2年生になる春、東海道新幹線が開通。家庭教師先の子供と京都駅に見物に行った。その秋に東京オリンピック開催。日本女子バレーボールの大活躍、はだしのアベベのマラソン優勝等に日本中が湧いた。テレビが一気に家庭へと。

⑦    昭和48年11月29日 大洋デパート火災。死者104名負傷者67名。当時、宮崎に住んでいたが、大水害の被害を受けた叔母の店がすぐ近くだった。

⑧    昭和60年8月12日 日航ジャンボ機墜落事故。

当日福島に出張中だったが、テレビにくぎ付けに。死者520名、奇跡的に4名の生存者。12歳の川上慶子さんがヘリコプターで救助される光景が焼き付いている。

⑨    平成7年3月20日 地下鉄サリン事件

松本智津夫を教祖とするオウム真理教が、東京の地下鉄車両に猛毒のサリンをまき、死者14人重軽傷者6000人以上という未曽有の大惨事になった。

当日、熊本日日新聞社に入社したばかりの長男から9時過ぎに職場に電話。受話器越しの第一声「親父は、生きとった!」が、今も忘れられない。

⑩    令和7年6月30日 長嶋茂雄逝く(89歳)

石原裕次郎、美空ひばりと並んで昭和を代表するスーパースターだった長嶋茂雄の死去に「昭和は100年で終わった!」の感が深い!


コメント


bottom of page